2025/01/25

えーしー

 とある放送局はとあるトラブルにおり、ほぼすべてのCMがACジャパン(旧公共広告機構)のものに切り替わっているのだ。
これだけいろんな種類を作ってたんだと感心したけど。
まさに現在のトレンド。
東日本大震災直後もスポンサーがつかずにACジャパンの広告が流れまくったけど、今回の状況はそれとはまた異なるのだ。
なぜなら、広告主はCMの放送を取りやめているだけで、広告枠は買ったままだから。
つまり、ACジャパンの広告に切り替わろうと、すでに支払っている広告料は今のところ返金されていないのだ。
すでに「返金しろ」という声は上がっているようだけど・・・。
とはいえ、広告枠の更新時期にはもうスポンサーがつかなくなるので、今はしのげても間もなくかなりきつくなるんだよね。

テレビのCM契約にはいくつか種類があって、いわゆる各番組の中で流れる「ご覧のスポンサー」のCMはタイムCMと呼ばれるもの。
特定の番組に対してスポンサー料を払って、その番組の時間枠の中でCMが流れるのだ。
番組の内容によって視聴者層がある程度想定できるので、対象を絞った訴求力のある広告が打てる、と言われているよ。
もちろん、その分だけお高いのだ。

もう少し安価に広告を流したいときは、番組提供クレジットの中には表示されないけど、「ほか各社」という扱いでCMを入れることも可能なのだ。
こういうのがスポット契約と呼ばれるもの。
番組中に流れるものが「パーティシペーション」で、番組と番組の間に流れるものが「ステーションブレイク」だよ。
一社提供の番組なのに時々その会社以外のCMがなあれるのはこれなのだ。

さらに、もっとイレギュラーなものもあって、それが「フリースポット」とうもの。
ある時間の幅の中で一定の回数CMを入れてください、時間帯は指定しません、という契約。
有名どころではハウス食品やコーワがつかっているもので、CM枠に空きが出るとそこに差し込まれることが多く、埋め草のように使われるのだ。
特定の層をターゲットにせず、全般的に広告すればよい、というころであればこれが使えるんだよね。
でも、個人的にはハウス食品のカレー粉のCMみたいなのは、見たらカレーが食べたくなるので、必ずしもグルメ系の番組の間である必要はなく、ドラマだったり、バラエティだったりなんでもありのような気がするな。

で、このフリースポットの特徴として、他にスポンサーがつかない場合に入ってくることが多いので、この手のCMばかりが目立つようになる=スポンサーが付きづらくなっている、ということなのだ。
視聴率が落ちて人気が低迷してくるとそうなってくるわけで、CMの流れ方を見るだけでもそういうのが何となく察せるというわけだ。
もちろん、深夜番組のようなもともとスポンサーのつきづらいものもあるので、徐々にCMの流れ方が変わっていって、という場合限定だけどね。

で、現在の某放送局はこの状況をさらに超えたところにあるんだよね。
誰もCMを入れたく無くなくなった場合に差し込まれるのがACジャパンのCMなのだ。
道徳・マナー的なCMだったり、公益的な事業(あしなが育英会や子ども食堂、各種検診など)だったり。
東日本震災の時に目立ったのが「元気に挨拶しよう」というやつで、今でいうと、「検脈」と「決めつけ刑事」が話題かな。
フリースポットの場合はまだスポンサーがお金を出してくれているわけだけど、それさえもいなくなると、こればかりになってしまうのだ。
幸い、現時点では広告枠の引き上げだけでいったん出した広告料は返金されていないので収入減になったいるわけではないけど、すでに広告料を払っているのにCMを止めてほしい、と言っている企業が多いわけだから、次の契約には結びつかないよね・・・。

そのACジャパンだけど、前は公共広告機構と名乗っていたのだ。
名前的に公的な機関だとばかり思っていたんだけど、業界関係者が作った任意の団体だったんだよね。
米国にも似たような組織があって、それをまねて、昭和46年(1976年)に関西で活動sる関西広告機構が発足し、それが昭和49年(1974年)に公共広告機構になって活動が全国展開されたそうだよ。
で、公的機関と紛らわしいという理由で、平成21年(2009年)に正式名称をACジャパンに改めたのだ。
時代時代でけっこう話題になっている広告を打っていて、もともとわりと存在は目立っていたけど、いよいよここに極まってきた、という感じかな。
おかげで現在放送中のフルラインナップがわかったしね。

2025/01/18

当事者間で

 最近よく報道で耳にする言葉。
それは「示談」。
自動車の接触事故とかをイメージするけど、今話題になっているのは、泥酔したうえでの住居不法侵入だったり、和解金を9,000万円支払ったと言われるトラブルだったり。
そこで、改めて「示談」というものを調べてみたのだ。

一般に「示談」と言われているものは、法律上は、最場外の和解、私法上の和解と呼ばれるもの。
民法第695条「和解は、当事者が互いに譲歩をしてその間に存する争いをやめることを約することによって、その効力を生ずる」という条項に基づくもの。
重要なのは、双方が譲り合って妥結している、と定義されていることなのだ。
交通事故なんかの場合は、加害者側の謝罪と損害賠償によって被害者側が蛍雪への被害届を取り下げる、みたいな感じ。加害者側は謝罪と被害者側が納得する額の金銭の支払いで、被害者側は被害届の取り下げで、それぞれ裁判で争わないということを譲って合意していることになるよ。

民法事案であれば、双方が納得しているのであれば必ずしも裁判で決着をつけなくてもよいわけだけど(逆に言うと、双方の話し合いだけでは決着しないから民事裁判をするわけだけど)、刑事事案はそう単純ではないんだよね。
治安維持という観点では、社会通念上許されざる行為で法律上犯罪とされているものについてはきちんと罰する必要があるのだ。
なので、接触事故でけがをした、という程度であれば被害届が取り下げられれば送検・起訴されることはまずないけど、ひき逃げで被害者が亡くなっているような場合、被害者遺族と賠償金の支払い等で和解ができていたとしても、刑事罰は免れないのだ。

例えば、今回の住居不法侵入の場合、知らない人に勝手に家に入ってこられる、ということだけど、その家の住人が和解で来ている限りにおいてはそこまで目くじら立てて罰するほどでもないものだよね。
なので、このケースは示談で和解ができていれば刑事事件になる可能性は極めて低いのだ。
入っていただけでなくその場で暴れて器物損壊もある、なんて場合は別だけど、ただ入ってきただけで物的損害なく追い出しに成功していれば、入ってこられた住人側が許すというのであればそれ以上のものではなくなるよね。
一方で、問題は「トラブル」の方。
何があったのか全く詳細はわからないけど、金額的に相当なことがあったんじゃないかと推測してしまうよね。
すると、被害者との間で和解が成立していようが、刑事事件になる可能性はあるのだ。
実際、加害者側はコメントで「示談で和解しているから今後の活動に支障はない」とか書いているけど、すでにこれだけシャイ的に騒がれているわけで。
何があったのかの中身いかんでは、公序良俗の観点で、また、治安維持の観点で刑罰を科すべき、との判断は無きにしも非ずなんだよね。

ここで気になるのは、仮に強制的な行為があった場合、それって「親告罪」じゃなかったっけ?、ということ。
親告罪というのは、告訴が泣けれあ公訴を定義できない、つまり、検察官が刑法犯として裁判にかけられないという犯罪のこと。
プライバシーの保護の観点から、いわゆる「強姦罪」は長らく親告罪とされてきたので、被害者側から訴えがなければ状況証拠として確実にそういう事案があったとわかっていても裁判には持ち込めなかったのだ。
ところが、シャイ的な受け止めとして、強制行為や痴漢・盗撮のような性犯罪は被害者の訴えがなくても罰せられるべきというように社会の受け止めが変わってきたので、「不同意性交等罪」となった現在の刑法の扱いでは非親告罪になっているのだ。
なので、まず警察が捜査に乗り出すかどうかというのはあるけど、示談で和解していても刑事罰は回避できない可能性があるんだよ。
ここまで大々的に報道されるとその可能性はゼロには見えないよね。

というわけで、示談による和解で完全に刑事罰が回避できるのは親告罪のみなので、気を付ける必要があるのだ。
刑法上親告罪に規定されているのは3つのケースがあって、「告訴がなければ公訴を提起することができない」と明確に規定されているよ。
(1)事実が公になると、被害者に不利益が生じるおそれのある犯罪
 未成年略取・誘拐罪、名誉棄損罪・侮辱罪、新書開封罪・秘密漏示罪
(2)罪責が比較的軽微であり、または当事者相互での解決を計るべき犯罪
 過失損害罪、私用文書等毀棄罪・器物損壊罪・信書隠匿罪
(3)親族間の問題のため、介入に抑制的であるべき犯罪
 親族間の窃盗罪(親族相盗例)・不動産侵奪罪、親族間の詐欺罪・恐喝罪等、親族間の横領罪
このうち、(3)は相対的親告罪というもので、加害者と被害者の関係性が親族である場合の特例という扱いになっているのだ。

2025/01/11

UG

 産経新聞の元日の一面には、夫婦別姓について小中学生にアンケートをした結果の記事が載ったらしいのだ。
夫婦別姓推進派の人たちはよく「別姓を強制するわけではなく、別姓にして困る人はいない」と主張していたのだけど、このアンケートによると、子供たちは両親が別姓だといやらしいのだ。
家族は同姓というのが当たり前だったのだから当然の結果のような気もするけど・・・。
で、またこの話題が盛り上がったんだよね。

この話でよく出てくるのは、江戸時代までは庶民には名字がなく、明治以降の制度だから「夫婦同姓は伝統ではない」という主張。
これは一部合っていて、一部間違っているのだ。
まず、これはもうよく知られたことだけど、確かに江戸時代は武家・公家以外は公式に名字を名乗ることは許されていなかったけど、さすがにそれでは個人を区別するのが大変なので、事実上は名字のようなものを名乗っていたのだ。
一般に「屋号」とも言われるけど、商家であれば店の名前。
例えば、「紀伊国屋文左衛門」とか「蔦屋重三郎」とかみたいな感じ。
農村集落でも、田の縁にあるから「タブチ」、里山のふもと近くだから「ヤマシタ」、村の庄屋の家だから「ムラカミ」とか。
明治期に名字を名乗るように言われて、その屋号をほぼそのまま名字に転用したケースと、せっかくだからと新たに「創姓」したケース、よくわからないから庄屋や寺社などの額のある人につけてもらったケースなんかがあったみたお。
場合によっては村落でみんな似たような名字になってしまってけっきょく区別がつかないから屋号をそのまま判別に使っているようなところもあるのだ。

武家や公家の名字も似たようなところがあって、正式な一族の血縁を表すのは「本姓」又は「氏(うじ)」なんだけど、これは有名な4姓=源平藤橘をはじめいそんなに種類が多くなく、区別がつけづらいので、屋号のように低地宅の場所や所領の地名などを名乗ったのだ。
例えば、公家の藤原家の例で言えば、北家、南家、摂家、式家の4つに分かれ、それがさらに分かれていって、近衛家や冷泉家、九条家などの明治期に見られる家族に積んがっていくんだよね。
武家の場合はほとんど源氏か平氏なわけだけど、鎌倉幕府を開いた頼朝は源氏姓を使い続けたけど、そののちに室町幕府を開く足利将軍家は同じ源氏でありながら栃木県の足利庄からとった足利を名乗ったのだ。
南北朝期に足利家と対立する新田家は同じ源氏で新田庄からとった名前。
頼朝に協力して鎌倉幕府で執権になる北条家は元は平氏で地盤にしていた伊豆の地名から北条を名乗っているよ。
同じく頼朝を助けた三浦氏も平氏で、こちらは三浦半島のあたり。
羅生門の鬼の腕を切り落とした渡辺綱も源氏で、渡辺は兵庫県の地名だよ(渡辺綱自身は東京三田の当たりの生まれ)。

武家や公家については、種類の少ない本姓だけだと区別しきれないので、屋号的なもので区別して読んでいたのが名字になっていくのだ。
ただし、公式文書には本姓で署名したりするので、徳川家康も征夷大将軍として「源朝臣徳川家康」みたいに書いたりするのだ(松平氏が源氏かどうかはあやしいとされているけど、なぜか征夷大将軍は源氏の棟梁がなる、というように考えられていたので源氏を名乗ったと言われているよ。)。
ちなみに、織田家は平氏、太閤秀吉の場合は豊臣が本姓なのでそのままだよ。
これらの上層階級は、明治期になって形式的にも本姓を名乗らないようになって、戸籍が整備されるときに本姓ではなく名字の登録になったのだ。

で、問題は、これらの下級で女性はどう名乗っていたか。
平安文学では、菅原孝標娘だとか藤原道綱母みたいな個人名が伝わっておらず、続柄だけで記録されているばあいもあるけど、紫式部の使えた中宮・藤原彰子のように、生家の氏を名乗ることも多かったようなのだ。
考えれば当然で、貴族階級の結婚は純粋な恋愛結婚というより、政略結婚である場合が多かったと考えられるし、そもそも平安時代は「通い婚」なので、男性配偶者の家に入るわけではないのだ。
武家についてはだいぶ血縁による結びつきが強く、家族意識が高いように思われるけど、源頼朝の夫人は北条政子であって、やはり生家の氏を名乗っているよね。
これも血縁を大事にするからこそ、どの血縁集団と親族関係なのかがわかるように、あえてそうしているんじゃないかと思うんだよね。

一方で、庶民については、「嫁に行く」、「婿に入る」が基本なので、どちらかの屋号の集団に組み入れらることが多かったのだ。
そうすると、国民の大多数は庶民なので、明治期に民法を整備する際いろいろ議論した結果、夫婦同姓が基本になったようだよ。
なので、「名字がなかった」というとけっこううそになって、「伝統ではない」とまでは言い切れないわけ。
でも、明治以降に正式に法制度化されたので、そういう意味ではずっとルール化されていたわけではなく、あくまでも習慣的にそういうケースが多かった、程度というわけだね。

2025/01/04

皮と汁

 お正月がやってくるとよく目にするやつ。
それは、あの鮮烈なオレンジ色の・・・。
橙(だいだい)!
みかんじゃないんだよ。
「代々」栄えるという縁起物なので、正月の注連飾りや鏡餅に用いられるのだ。
特に武家で尊ばれたので、江戸以降に広まった文化だと思うけど。

ダイダイは、そのままにしておくと複数年の間、木になったままになるのだ。
これは一部の柑橘類に共通の性質のようだけど、一度越冬して次の夏を迎えるとまた果皮に葉緑素が復活して緑に戻るのだ。
これを「回青」というのだ。
ダイダイはそのまま食用にしないのでそのまんまなんだけど、河内晩柑のような食用のものは食感が悪くなるので、回青しないように袋をかぶせるんだそうだよ。
夏みかんの場合は回青する前、春に完熟した頃に食べるのだ。

ダイダイは飾るだけかというと、そうでもないのだ。
きれいなオレンジに色づくほど熟すると苦みが強くなってしまうのだけど、未熟果の青い状態だと酸味が強く風味がよいので、ポン酢に使われたりするんだって。
スダチやカボスと同じような感じで、酸味が強く、風味がよい果汁を押すの代わりに使うのだ。
一方、完熟した場合は皮を使うんだよね。
乾燥させた完熟果の果皮は「橙皮(とうひ)」と呼ばれる漢方薬。
後から出てくる苦み成分が健胃作用などをもたらすんだよ。
みかんの皮を干した「陳皮」よりも高級みたい。
というわけで、ダイダイは飾りにも使えるし、未熟なうちは果汁が調味料に使われるし、完熟すれば生薬にもなる優れものなのだ。
最近は注連飾りも鏡餅もみかんで代用される方が多いかもだけど。

同じくこの頃に出てくるちょっと変わった柑橘類と言えば金柑。
ダイダイはかなり果実が大きいけど、金柑は小さめ。
で、この金柑の特徴は、果汁ではなく、むしろ皮をメインに食べること。
実が小さいし、わりと水気が少ないので、果汁は微々たるもの。
むしろ、甘露煮にしたり、砂糖漬けにしたりで、そのまま食べることが多いのだ。
でも、そうして甘く味付けても、もともともっているほんのりした苦みで後味がよいのだ。
そして、きっちりと柑橘特有のさわやかな風味もあるんだよね。
小さいけど種はしっかりあるのだけど、これは原種に近いものだからみたい。
それでも、それをおいしく食べようとするんだから、昔の人はいろいろと工夫するよね。