2026/10/17

奈良の都の

 あれは中学校の社会科の授業だったか。
日本の旧国名(令制国の名称)はすべてに文字になっている、という話が合ったのだ。
有名なのは、「和泉」や「紀伊」。
「和泉」の「和」の字はなくてもいいし、「紀伊」に至ってはいまでは「きい」と読むけどもともとは「き」なので「百舌鳥(百舌鳥)」同様に感じにした方が字数が増えているのだ!

でも、これにはちゃんと理由があって、奈良時代の元明天皇の治世下で各令制国に地誌としての風土記の編纂が命じられるんだけど、その際、国名をはじめとした地名は中国にならってよい意味の漢字二文字にせよ、との指示があったのだ。
これは「諸国郡郷名著好字令」、通称「好字二字令」と呼ばれるもの。
これにより「泉の国」が「和泉国」に、「木の国」が「紀伊国」、「粟の国」が「阿波国」になったのだ。
字数が減ったものもあって、「上毛野(かみつけの)」と「下毛野(しもつけの)」はそれぞれ「
上野(こうずけ)」と「下野(しもつけ)」になったんだよね。
「大和」は、もともと「倭」と書いて「やまと」だったものが「大倭」で「やまと」になって、それがさらに「大和」に字が変わったよう。
「近淡海(ちかつあはうみ)」と「遠淡海(とおつあはうみ)」は「近江(おうみ)」と「遠江(とおとうみ)」になるよ。

まさにこのタイミングは中国の率調整にならって中央集権型の国家統治システムが構築されていくタイミング。
武力を持った有力な氏族(=豪族)がそれぞれの支配地域を治めつつ「諸王の王」として天皇がその上に君臨していた豪族の時代だった飛鳥時代から、天皇を頂点として中央集権国家でその下で貴族が実務を担った奈良時代に変わろうとする頃。
この新たな統治システムの参考になったのが中国の王朝であり、それにならって様々な国家改革がなされていくんだよね。

代表的なのは国家事業としての歴史書の編纂で、古事記は元明天皇の在任時に成立しているし、正史である日本書紀はそのすぐ後に出来上がるのだ。
これら国家としての歴史をまとめるとともに、各地方の歴史や風俗を風土記としてまとめさせたわけだね。
その前段階として、大化の改新の後に中国式の元号の導入(暦の中央管理は国家としての重要な仕事)、中央集権国家としての戸籍制度の導入(庚午年籍)、大宝律令(701年)による中国式律令制国家への体制変更、国産通貨の鋳造(和同開珎)なんかがあったわけ。

この時代は中国から漢字を輸入して「万葉仮名」として表音文字にも使っていたわけだけど、漢字の本来の意味にかかわらず「音」だけ拾って字を当てているので、大和言葉で意味を成している地名に「音」だけで漢字を当てると、中国の人から見ると変なことになるんだよね。
中国から見て文明の低い蛮国ではなく、まともな国として対等に付き合っていきたいという野望があったわけで(明治維新後の西洋文明の導入と同じような感覚)、せっかく国家統治システムは整備したのにそっちがおろそかだと、ということもあったはずなのだ。
なので、本当に中国人からどう受け止められていたかはよくわからないものの、ぱっと見は変に見えないように体裁を整えた、というのがこの「好字二字令」だと思うんだよね。

このとき、令制国の名前だけでなく、郡や字の地名も改めたんだけど、そのとき「飛鳥」で「あすか」になったようなのだ。
もともとは三文字で「明日香」を使っていて、今でも「明日香村」なんだけど、平城京の前に都のあった「あすか」の表記は中国式でかっこよくしたいわけで。
で、「飛ぶ鳥の」という「あすか」に係る枕詞からとってこの表記にしたっぽいのだ。
漢字だけ見たらまったく「あすか」要素はないからね。

それにしても、この激動の時代、飛鳥時代から奈良時代って、実は女性天皇が多い時代でもあるのだ。
聖徳太子が補佐した推古天皇をはじめ、皇極天皇・斉明天皇(重祚したので同一人物)、持統天皇、この元明天皇、その次の元正天皇もそう。
そして、孝謙天皇・称徳天皇(重祚したので同一人物)のときに道鏡のような不逞の輩が出てきたからか、そのあとは江戸時代まで女性天皇は出ないのだ。
それはともかくとして、年齢的にちょうどよい男性皇族がいなかったから女性皇族がピンチヒッターとして践祚・即位していたということなんだけど、ここまで大きく国の形が変わったことにも実は女性天皇というものが貢献したのではないかと思ってしまうよ。
そういう研究もあるのかな?

2026/10/10

誰がためにたれはある

 うちの近所にはおいしい焼鳥屋さんがあるのだ。
身がふわふわでジューシー。
いわゆるチェーンの居酒屋なんかで出てくるのとは別物。
で、こういう焼鳥って、どうしても「塩で食べるのが通」みたいなノリがあるよね。
確かに塩だけでここまでおいしくできるんだ、という感動もあるけど、たれもおいしいのだ。
たれと油が炭に落ちて十と焦げるにおいもまた香ばしくてよいのだ。

そんな焼鳥だけど、非常に単純な料理なので、歴史は古いのだ¥¥。
っていうか、火であぶって食べようとしたとき、魚でも肉でも串状のものにさして火の近くに置くよね。
まさにそこから始まるわけだ。
なので、我が国で文献上確認される鳥肉(ニワトリに限らず食用の鳥類一般、キジやカモなども含む)の焼いたものは平安時代のもの。
おそらく奈良時代でも飛鳥時代でも食べているんだよね。
メニューが文字で残っていないだけで。
っていうか、狩猟で獲った鳥類を焼いて食べるだけであれば先史時代からあるはずなのだ。

肝心の味付けは、基本は塩。
この時代がずっと続くわけだよね。
ただし、昔の塩は今のように塩化ナトリウムじゃなくて、藻塩だったりするわけで、うまみ成分もあったはず。
なので、単純な塩味というわけではないけど、塩味は塩味。
味噌は平安時代には伝わってきているけどまだまだ高級品なので、おそらく調味料としては使っていないのだ。


鎌倉時代になると味噌も広まってきて、武家文化の中で味噌汁も出てくるのだけど、大豆の生産量が上がって庶民にまで普及していくのは室町時代以降のようなのだ。
このころはまだ自家消費分で自分で作る、みたいな感じだったようだけど、江戸時代になると大量生産の体制が構築され、やっと一般の調味料としての味噌がかくりつするのだ。
これに呼応するように、塩味に加えてみそだれ(たれというより少し伸ばした味噌を塗ったイメージ化?)も出てくるのだ。
このころになると、味噌の醸造家庭の副産物である「たまり」も出てきて、やがてはここから「醤油」が生産されるようになるのだ。
千葉などで本格的に醤油が作られるようになる江戸中期くらいになると庶民も調味料として醤油が広まってくるよ。

そうなると、醤油味も出てくるはず。
そう、醤油味は出てくるのだ。
焼いた肉を醤油と酒をまぜたたれにつける、みたいな。
醤油団子のような味だよね。
まだ焼鳥のたれには至らないのだ。

たれに甘みが加わるようには、別の料理からの輸入。
甘いたれといえばウナギのかば焼き。
ウナギもむかしから食べられていて、最初は塩味だったらしいんだよね。
で、醤油味に移行しようとする際、ウナギは脂が多いので、そのまま醤油と酒だけのたれにつけてもはじいてしまってあんまり味が染みないのだ。
なので、白焼きにしてわさび醤油で食べる、ならいいんだけど、味付きのかば焼きにはできないわけ。

そこで出てきた工夫が砂糖やみりんを加えて甘みを付けるという工夫。
糖分が加わることでたれの浸透圧が高まるので、味が染みやすくなるのだ。
ちょうど砂糖やみりんも江戸中期になると庶民でも手に入れやすくなるんだよね。
それもあいまって、醤油に砂糖やみりんを加えた甘辛いたれができあがるわけだよね。
この甘いたれは、「照り焼き」なんかにも使われるわけだけど、ウナギには抜群に相性が良くて、串に刺したかば焼きをたれにつけながら焼く、というスタイルが確立するんだよね。
だったら、焼鳥もそれでいこう、とはなるよね。
ただし、江戸時代は鳥肉はそこそこ食べられていたけど、大っぴらに食べるようなものでもなかったはずなので、たれ焼鳥はかなりマイナーな部類。
江戸時代の料理本では、焼くというよりは、鍋にする、汁物にする、というのがメジャーな食べ方だったみたい。

御一新後の明治時代になると肉食の在り方も変わってきて、いろんな肉をいろんな食べ方で食べるようになるわkだよね。
特に独特の風味がある牛肉はみそ味の牛鍋にしたり、味噌漬けで食べたりという感じ。
比較的くせのない鶏肉はそれまでの魚料理の手法を応用して、照り焼きやらつみれやら、竜田揚げやらになっていくわけ。
おそらく、そんな中でたれの焼鳥もメジャーになっていくのだ。
でも、ここで重要なポイントがあるのだ。
この時点ではまだまだ鶏肉は高級品なので、庶民が食べる「やきとり」は鶏肉や豚肉を精肉加工する際に出る廃棄部分(モツを含む。)だったらしいのだ。
そうなるとどうなるか。
臭みが強いので味の濃いたれでごまかす必要があるのだ。
これがたれの焼鳥が普及する原動力なんだよね。
ちなみに、渋谷のハチ公は主人の帰りを待っていたわけだけど、その間にもらえる焼鳥を楽しみにしていたという話もあり、実際にし御解剖してみると胃の中から焼鳥の串が見つかったりしているのだ。
おそらく、これはホルモン焼きみたいなものはんだよね。

で、戦後の闇市くらいまではそんな「あやしい肉」を「やきとり」と称して食べていたわけだけど、ブロイラーのような鶏肉の大量生産体制ができると庶民でもちゃんとした鶏肉が手に入るようになるのだ。
そうなると、今度は原点回帰で、正規の鳥肉なんだからその味を最大限味わいたいと焼鳥の塩が出てくるわけだよね。
新橋の高架下の安い立ち飲み屋なんかだとまだまだ安い肉を使っていたのでたれが多かったりしたわけだけど、ちゃんとした焼鳥屋さんは材料にこだわると塩に傾倒していくことになるのだ。

こういう歴史の下で今の焼鳥ができあがっているんだよね。
でも、たれはたれでおいしいわけで、完全に塩に置き換わるものではないのだ。
ボクは特に皮とつくね、レバーは確実にたれで食べたい。

2026/10/03

ホシタイモイジルナ

 むかしから干しいもが好きなのだ。
子供のころに親がおやつに勝手く照れていたんだよね。
実家にまだ石油ストーブがあったころは少しあぶって食べたりもしたのだ。
で、今でもお気に入りで、銀座に出るとついつい茨城のアンテナショップに寄って買ってしまう。
おいしいやつが売ってるから。

もともとサツマイモは江戸時代に救荒作物として普及したわけだけど、その性質上、生のままで保存するよりさらに保存がきくように加工されてきた歴史があるのだ。
そここそ、最初の最初hじゃ薄切りにして干す、これだけ。
これは遠江(静岡県西部)で考案されたもので、「白切り干し」と呼ばれたそうだよ。
生のままだとけっこう水分量があるので冷暗所に保管しても腐ったり、カビが生えたりするんだけど、水分量を減らすことで保存性を高めたのだ。
でも、これはただの水分の抜けたサツマイモなので、干しいもとは全くの別物。
そもそも固いし、含まれているでんぷんも糊化していないので、そのままでは食べられないのだ。
なので、これをゆでたり、汁物の具にしたりして食べるわけだけど、さらに粉末状にして水でこねてから蒸して、サツマイモ餅のようなものを作ったりしたようなのだ。

で、これを考案した人が、干したものをそのまま食べられるようにと、今度はいったんゆでたイモを薄く切って干すようにしたんだよね。
これが「煮切り干し」と呼ばれるもので、今の干しいもに比較的近いのだ。
それが江戸も終わりのころ、文政7年(1824年)のことらしい。
いったん火を通しているのででんぷんの一部が控訴により麦芽糖に変化して甘みも出て、かつ、でんぷんが糊化しているので生のまま干したものより柔らかい。
ちょっと秀あぶったりして温めてやるとそのままでも食べられるのだ。
で、江戸時代のイモの加工はここまで。

明治に入ると、ゆでる代わりに蒸す方法が考案されたんだよね。
これが「蒸し切り干し」で、今の干しいもの製法。
イモを大量にゆでるのは大変だけど、蒸す場合はもう少し楽なので大量に生産できるようになったのだ。
しかも、蒸す場合はゆっくりと芯まで熱が入るに出、麦芽糖も増えるし、イモ全体がさらにでんぷんの糊化でやわらかくなるといういいことづくめ。
これが明治も半ばを過ぎた明治25年(1892年)ということだから、煮る方法から蒸す方法に切り替わるまでに70年ほどかかっているのだ・・・。
こうして大量生産できるうえに栄養価も高い干しいもは軍用の携帯食にも採用され、日露戦争の野戦食「軍人いも」としてメジャーになっていくのだ。

でも、ここまではまだ静岡の話。
部隊が茨城の移るのはもう少しあと。
実は、那珂出身の照沼勘太郎さんが静岡沖で難破した船から救助された際、静岡で干しいもを知り、地元に持ち帰って研究を重ね、茨城で最初の干しいもを作ったそうなのだ。
20世紀に入ると正式に静岡から茨城(那珂湊)に蒸した後に干す製法が伝わったのだ。
茨城は米どころでもあるし、関東の大農業生産地でもあるわけだけど、冬は空気が乾燥していて干しいもを作るのに環境がよかったのでどんどん広まっていったみたい。
で、特に沿岸部のひたちなか市、東海村などで名物になったのだ。

僕は特にねっとり、しっとり系が好きなのだけど、茨城の干しいもはそれが多いような気がするんだよね。
持つと手がべとべとするくらいのやつがお好み。
焼き芋でもほくほくよりはねっとりが好きなんだよね。
これはもともとのイモの性質もあるけど、ゆっくりと蒸しながら過熱して麦芽糖をたくさん作りつつ、しっかりでんぷんを糊化しているはずなのだ。

2026/09/26

シン・デン

 台風の影響で千葉がすごいことになっているのだ。
二度の浸水(というか水没)被害。
そして、また台風が近づいてきている・・・。
そんな中、報道で注目されたのが印旛沼。
水位が相当上がってしまったみたいであたり一面の水。
居住者は多くないみたいだけど、高級な錦鯉などを育てていた養魚場が完全に水没してしまったみたいだね。

もともと印旛沼はちょっと低地になっていて、しかも、まわりに水の流れが多くて自然に水が集まるところ。
江戸時代初期に利根川の瀬替えが行われ、もともと江戸湾に流れ込んでいた流れを千葉から太平洋に流れるように流路の変更をしたのだけど、その影響で印旛沼周辺にはさらに水が集まりやすくなったようなのだ。
つまり、江戸都市部の治水のための対策で、印旛沼周辺は水害が起こりやすくなったんだよね。

とはいえ、千葉のあたりは気候も温暖で稲作には適している地域。
水量が豊富ということは水田には向いている、ということで、印旛沼も何度か干拓による新田開発が試みられたんだけど・・・。
いずれも失敗。
どうしても水を逃がしきれなかったようなのだ。
そういう地形なら、今回の被害は「さもありなん」なんだよね。
そこまで集中的に雨が降ることがなかったから大きな被害が出なかっただけで、もともと水害リスクは非常に高い地域なのだ。
居住者がそこまで多くないというのもそういうところが理由かな。

江戸時代は大きな戦乱もなく平和な時代が続いたこともあって、人口が大きく増えたんだよね。
でも、それを支えるためにも農業生産量も上げる必要があって、いわゆる「新田開発」が盛んにおこなわれたのだ。
ちょうど農業技術、土木技術などの進歩もあったしね。
江戸市中の都市整備もそうだけど、個人的にはうまく水路を整備して水を逃がすようにして干拓を進めたと思っていたんだよね。
確かに、そういうところもあったけど、実際には、湿地自体がそんなにないわけで。
さらに、先の印旛沼や手賀沼などあまりうまく干拓できなかったところもあって、それほど貢献していないようなのだ。

むしろ、水利がよくなくて水田に使えなかった土地を水田にできるようになったのが大きいみたい。
そのときに重要な技術だったのは実は測量技術と言われているよ。
灌漑用水は常に流れていないといけないわけで、自然に水の流れを作るには「傾斜」が必要だったのだ。
つまり、水場から離れたところにある平坦なところには田圃は作りにくかったわけ。
江戸時代に土木技術が発達し、そこに正確な測量ができるようになって、微妙な高低差を使って灌漑用水を流せるようになったみたいなのだ。

もちろん、干拓事業で水を抜く時にも測量は重要で、オランダのように風車に連結したポンプで水を汲みだすわけではないから、堤を築いて水の流入を止めつつ、排水路を作ってそこから水を出していく必要があるのだ。
このとき、高低差が正確に測量できていないとこのイ排水路から逆流して水が入ってきてしまうわけだ。
基本的には位置エネルギーだけで水を動かすので、正確な測量が成功のカギになるんだよね。
荒川放水路の開削とか、利根川の瀬替えとか、治水関係の大規模土木工事もまさにこの恩恵を受けているわけだよね。
都内の神田上水や玉川上水も水源地からうまいこと水を江戸市中まで引いてきているわけで。
手計算と人力による土木工事だけでよくそこまで整備したものだと思うよね。

ちなみに、今の二分されている印旛沼は戦後の昭和21年になってやっと成功した干拓事業によるもの。
印旛沼放水路が完成して約900haの水田ができ、北印旛沼と西印旛沼に分断されたのだ。
でも、この放水路は途中で揚水をしたうえで排水しているので、江戸時代には決して成功し得ないものなんだよね。
そこまで水害対策としては手ごわいところなので、今回のような非常識な大雨だと仕方ない面もあるのかもしれないね。

2026/09/19

上陸とは海から陸地に上がるということです

 秋の連休が台風の影響ですごいことになりそうな中、ネットで面白いものをみつけたのだ。
1951年以降の気象庁のデータをもとに、台風が上陸したことのある都道府県に色を付けた地図。
ぱっと見でわかるんだけど、すごく不思議なんだよね。
まず、沖縄に色がついていない。
なのに、福井や広島には色がついている・・・。

記事の中にも解説が少しついているけど、その原因は気象庁における「台風の上陸」の定義なのだ。
気象庁では「台風の中心が北海道・本州・四国・九州の海岸に達した場合」を「上陸」と言っているんだよね。
ポイントは、日本列島のうち大きな4島に限られていること。
そもそも沖縄には「上陸」という概念は決してはまらないのだ。
代わりに、「台風の中心が、小さい島や小さい半島を横切って、短時間で再び海上に出る場合」は「通過」と言っていて、沖縄はよく「台風の通過」があるところ、ということだよ。

で、よくよくこの地図を見ていると、東京都も白いのだ。
伊豆七島やら小笠原はけっこう台風被害があるような気がしていたけど、こちらは「通過」はあっても「上陸」はないんだよね。
東京都に台風が上陸しようとする場合、他の県の海岸線に接しないように東京湾に入り込んだうえで、ごくごく限られた東京湾の海岸線(大田区、品川区、港区、中央区、江東区及び江戸川区)から陸地に入らなければいけないのだ。
区の数でいえば多いけど、東京湾の左上のさらに入り組んだところなので、普通はその手前の三浦半島あたりで神奈川に上陸してしまうか、南から東京湾に入って千葉の房総半島に上陸して東進して太平洋に抜けるかしてしまうわけだ。
理論上ないとは言えないけど、これはまず無理だね。

では、なぜ福井に上陸しているのか。
これは2010年9月の台風8号らしいんだけど、朝鮮半島と九州・本州の間をうまくぬけて日本海に入り込んだ台風が来るっと向きを変えて敦賀から陸地に入ったらしいのだ。
これは観測史上初で、以降もないらしいので、非常にレアなケース。
同様に、広島にも過去3回上陸しているんだけど、直近は2019年の台風10号で、九州・四国の間をうまく(?)縫って呉から陸地に入ったらしいのだ。
同じように、けっこう特殊なルートを通ったものとしては、宮城や秋田、兵庫への上陸もあるよ。
※この地図は「再上陸を含まず」なので最初に陸地に入ったところだけをカウントしているので、これらの県に上陸するのは珍しいのだ。
意外なのは福岡で、台風へけっこう来ているイメージはあるけど、上陸は1回のみ。
これもいったん日本海の方に入ってから南に進路を変えない限り福岡から上陸にはならないから。

さらに、今年初上陸となったのは茨城。
これはニュースでも話題になったよね。
茨城からりくちにはいろうとするとかなり大きく方向転換しないといけないので、いままではなかったのだ。
もう少し大回りになると、宮城とか岩手に上陸、ということになるんだよね。
よくある多雨風の進路だと日本の真南あたりで発生し、フィリピンの方をまわって時計回りに大きく弧を描いて日本に接近してくるわけど、その場合は東海地方や千葉に上陸してしまうのだ。
今年の台風15号はフィリピンの方には進まず、そのまま日本の方に接近してきて、茨城にワンタッチして東に進路を変えるみたいな進路をとっていて、うまいこと千葉には触れず、茨城に上陸したみたいなのだ。
確かに、いつもの進路コースを東にシフトすればそういう弧になるけど、これは狙ってもなかなかできなさそうなコースだ(笑)

そして、最初の定義に戻るのだけど、そもそも海岸線を持っていないと絶対に上陸はないのだ。
なので、長野、岐阜、滋賀、奈良、栃木、群馬、埼玉のような内陸県(海なし県)には上陸しないよ。
上陸はないけど、不通に台風は通っていくから被害はあるのだけどね。
そういう意味では、この地図は面白いけど、「上陸」という言葉に大きく振り回されているので、よくよくわかってないと誤解がありそうだ。
台風の被害とはあんまり関係ないからね。

2026/09/12

ハードなやつで

普段はプレーンヨーグルトの大容量パックを買って少しずつ取り分けて食べているのだけど、たまにカップのヨーグルトも買うんだよね。
そういうときについつい手が伸びてしまうのでヤクルトのソフール。
トクホだからとかそういうことではなく、昔ながらのぷるんと固まって、しっかり甘みのついたヨーグルトがあんだか懐かしいんだよね。
まさに小学校の時の給食の時に食べていた味。
正直、牛乳はあまり好きではないし、そもそもごはん食が増えていた給食に牛乳はまず合わないので、デザート感覚で食べられるヨーグルトの日は盛り上がったものだよ。
そういう楽しい記憶もあるから余計においしく感じるんだよね。


ユーラシア大陸では西から東までわりとよく乳製品を食べる文化があって、ヨーグルト的な発酵乳はメジャーな食品なんだよね。
日本でも奈良時代とかだと乳製品を食べていたようだけど(「蘇」とか「醍醐」とか)、その後ウシは牛車を引く、或いは、農耕に使う、という感じで、肉も乳も食文化から消えていくんだよね・・・。
仏教の本場のインドでは普通に牛乳や乳製品を食べているから仏教の影響でもないとは思うんだけど。
そんな土壌の中で西洋文化とともに入ってきた乳製品。
やはり最初は抵抗があったようなのだ。

牛乳自体もあまるこのまれなかったのだけど、発酵乳であるヨーグルトについては、腐った乳と区別がつきにくいということでより忌避感が強かったみたい。
一方で、乳酸菌発酵により整腸効果も期待できるし、発酵の過程で乳糖や大きなたんぱく質が分解されていて栄養が吸収しやすいなどのメリットもあったので、なんとか日本でもヨーグルトを広めたい、と思って人もいたのだ。
そうしてできたのがハードタイプのヨーグルト。
発酵乳を瓶詰めしてゼラチンや観点といった凝固剤で固めてしまってプリンやババロアのようにするのだ。
その際、ヨーグルトの酸味もいまいち評判がよくなかったので、加糖して甘くしたんだよね。
こうして、日本におけるヨーグルトは甘くて固まったものとして広まっていったのだ。
この伝統を今なお引き継いでいるのがソフールというわけ。
瓶ではなく紙パックだけどね。

一方で、ヨーグルトというものがある程度普及してくると、明治のブルガリアヨーグルトをはじめとして、「本場」の味を求めるようになるのも日本の特徴。
これは本当に発酵乳を容器に入れただけなんだよね。
乳酸菌発酵で凝集しているけど、ゆるくかたまっているだけど、整地しておくと水分(乳清)が分離してくるのだ。
今はこのプレーンのヨーグルトに果物やジャムなどを加えて食べることが多いよね。
でも、こういう本格派ヨーグルトの出始めも、やはり酸味が気になるということで、当初は「フロストシュガー」というのが別袋についていたものなのだ。
これはグラニュー糖を特殊加工して顆粒状にしたもので、溶けやすく固まりにくい、というもの。
よく冷えているおうれーにヨーグルトと混ぜても「だま」にならないのだ。

そして、これは今でもあるけど、フルーツなどを混ぜ込んで甘く加工したヨーグルトもあるよね。
フランスのダノンのものなんかが有名だけど、ヨーグルトの酸味を活かしつつ、フルーツと糖の甘みで食べやすくしているのだ。
で、実はこのフルーツ等の入ったプレーン以外のヨーグルトの場合、少しゲル化剤が添加されているんだよね。
というのも、普通にプレーンヨーグルトとフルーツを混ぜただけだと時間経過により水分が分離してきてしまうから。
それを避け、口当たりを滑らかにするために、固形に固まらない程度に、フルーチェくらいの固さになるようにゲル化剤として増粘多糖類などが加えられているのだ。
なので、同じ個食パックのブルガリアヨーグルトでも、プレーンのものは原材料が「生乳、乳製品」とシンプルになっているのに対し、フルーツ入りのものは、そこに甘味料やゼラチン、増粘多糖類が入っているのがわかるのだ。
ちなみに、水分をきってより固くしたギリシアヨーグルトだけど、甘みやフルーツのソースが混ぜ込んであるものは、滑らかさを維持するためにやっぱり増粘多糖類が添加されているよ。

というわけで、実はヨーグルトについては、①自然に固まったもの、②水分が分離せず滑らかになるように少し固めてあるもの、③プリンのように完全に固形に固めてあるもの、の3種類があるのだ。
基本的にさわやかな酸味が好きなのでどのヨーグルトも食べるんだけど、大人になってから食べる機会が一番少ないのが③のタイプなので、時に無性にソフールが食べたくなるんだよね(笑)
原点回帰だ。

2026/09/05

総統閣下の飲み物

 以前、ファンタは第二次大戦中に帰化・コーラが手に入らなくなったナチス・ドイツで開発された、という話を耳にしたことがあったのだ。
ということは、ロシアの偽マクドナルドのようなものか、と勝手に思っていたんだけど、実際はそうではないらしい。
あくまでも、コカ・コーラ社の製品なのだ。
米国本社ではなく、ドイツ法人が開発したということだけど。

ドイツにおいてコカ・コーラ社が現地法人を設立してコカ・コーラを販売し始めたのは、第一次大戦の復興から立ち上がりきっていない大不況下の1929年。
ところが、その後ドイツではナチス・ドイツ政権下で経済が復興し、コカ・コーラの売り上げも大きく伸びていて、甘い炭酸飲料がかなり浸透していたbだよね。
ところが、第二次大戦が勃発すると米国との貿易には制限が出てきてしまって、コカ・コーラの原液が輸入できなくなってしまったのだ!
よく知られていることだけど、この現役のレシピは門外不出としてごくごく少数の限られた人たちの間でだけ伝承されるものなので、ドイツ法人においそれと渡せるようなものではないわけで。
そこで、国内で手に入る原料を使って何か新しい商品ができないか、と開発が始まったのだ。
そうして出来上がったのが「ファンタ」。

ただし、この戦前ドイツのファンタは今のものとはまったくの別物。
リンゴジャム製造時の残渣と乳製品製造時の副産物の乳性などを原料にしたもので、果汁入りオレンジジュースとコーラとレモンジュースを混ぜたような味わいだったらしい。
代用品として開発されたことを考えるとそんなものかも、とは思うけど。
とはいえ、戦時下のドイツ国内で広く受け入れられ、戦後の1949年にコカ・コーラの原液の輸入が再開されるまで、コカ・コーラ社のドイツ法人の主力商品だったらしい。
戦時下ではビタミンCとカフェインが添加され、粉末状にされた「ファンタ」がレーションに採用されていたらしい。
帝国陸軍の糧食が米(終戦直前はアルファ化米)又は乾パンと大和煮などの缶詰だったというから、ずいぶんとおしゃれだよね。
でも、イタリアはデザート、フランスはワイン、イギリスは紅茶とクッキー、米国はチョコレートまで入っていたというし、日本だけが貧弱なのかもしれないけど・・・。
ちなみに、今のファンタが普及してからも当時の味を懐かしむ声があって、「シュペツィ」という名称の飲料として残されたらしいよ。
ネットで調べる限りは今でもありそうだ。

で、次の問題は、今の「ファンタ」がどこから来たか。
これは、1955年にイタリア・ナポリで開発されたものだって。
イタリアのコカ・コーラのボトラー(原液を輸入してコカ・コーラの製品を作って流通・販売する会社)がオレンジ果汁を配合した炭酸飲料を開発し、先行してドイツで販売されていた飲料から名前だけもらったんだって。
これがファンタ・オレンジの最初と考えられているよ。
以降、糖分、果汁、フレーバーや着色料を配合し、炭酸で割ったコカ・コーラブランドの炭酸飲料が「ファンタ」になったのだ。
各国で使える原料が異なるので、国ごとの味になっているらしいよ。
そういえば、最初に米国出張に行ったときに飲んでみたファンタ・オレンジは日本のものより薬臭くてびっくりしたっけ。
ちなみに、スプライトは、当時米国ではやり始めたレモンライム風味の炭酸飲料のセブンアップに対抗するため、米国のコカ・コーラ本社がドイツで販売されていたファンタのクリアレモン味をもとにして開発したもので、源流はファンタらしい。

で、日本国内のファンタといえば、オレンジとグレープを主軸に様々なフレーバーが展開されているけど、都市伝説として知られているのが「ゴールデンアップル」。
1970年代にそういうフレーバーがあったという話が出てくるんだけど、日本コカ¥コーラからは正式に否定されていて、かつて「ゴールデングレープ」は販売していたけど、「ゴールデンアップル」は販売した記録がない、としているのだ。
なのに、公式記録に残っていないだけで販売していたという記憶を持っている人がいる、販売会社の方でもそのような商品を扱っていたと聞いたことがある、なんて声が今でもあるらしい。
まさに「伝聞調」なところが都市伝説そのものなんだけど・・・。
そして、商魂たくましい日本コカ・コーラは、2002年に新フレーバーとして「ゴールデンアップル」を販売したらしいよ。
それはなんか見た記憶がある。