太陽と月と木星と
今日は建国記念の日!
国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)第2条では、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」とされている日で、その日付は建国記念の日となる日を定める政令
(昭和41年政令第376号)で2月11日とされているんだよ。
戦前の紀元節の復活だと戦後もめにもめて制定された祝日として有名だけど、お正月明けから1ヵ月程度たってちょうど休みがほしい時期だからありがたいよね(笑)
この日は紀元前660年に神武天皇が奈良は橿原の地で践祚・即位された日付をグレゴリウス暦に当てはめたものなんだよ。
今回は、この日付の謎に少し迫ってみるのだ。
日本の最初の正史である日本書紀によれば、神武天皇の即位は「辛酉年春正月庚辰朔」の日とされているのだ。
日本書紀の編纂時期と歴代天皇の在位期間を計算すると、この「辛酉」の年は紀元前660年と計算されるんだって。
それをもとにして、昭和15年(1940年)に皇紀2600年の記念行事を大々的に挙行したのだ。
さらに、「春正月」とあるので立春のある月で、さらに庚辰の日を探せばよいことになるのだ。
※東洋の季節の考え方は立春になって気温が上がり始めるころからを「春」と呼ぶので、旧暦でいうと1月、新暦では2月から春になるのだ。
で、そのあたりの庚辰の日を探すと2月11日がどんぴしゃとあって、その前後だと12月20日と4月19日でどちらも候補にならないのだ。
それで2月11日だろう、ということになったわけ。
実際に現在の知識をもとに月齢を計算してみると、紀元前660年2月11日は「朔」、すなわち新月だったようなのだ。
計算上は日本書紀の記述とこの日付の比定は整合性があるのだけど、紀元前660年ころの日本はまだ弥生時代なので、おそらく、大和朝廷はまだできあがっていないんだよね。
考古学的に天皇家の存在が遡れるのはどうやっても古墳時代が限界なので、そのはるか以前にこういう事象があったかどうかは定かではないのだ(>o<)
でもでも、前漢~後漢の時代の中国でぇ亜辛酉の年に大きな政治的変革が起こるという説(讖緯説)がはやっていたらしく、それを採用するためにこの年に当てたとも言われているんだ。
紀元前7世紀だと中国はすでに春秋時代で資料も残っているので、後から計算して春正月の「朔」になる日として庚辰を当てた可能性もあるのだ。
少なくとも当てすっぽうで書いているわけではないみたい(笑)
ちなみに、日本書紀の編纂は養老4年(720年)で庚申の年。
神武天皇即位が紀元前660年とすると、その間には1380年あるのだ。
庚申は辛酉の前なので、720年の前の辛酉はその59年前の661年で、以降は60年周期でさかのぼっていくはず・・・。
とすると、干支が合わなくなるのだ!
(59+60×n)年前じゃないといけないはずだよね。
ここには干支紀年法の歴史が関わっているのだ。
もともと干支紀年法は木星の動きで年を表す紀年法によっているのだ。
木星は約12年周期で天球を一周するので、その動きを12区分してどの位置にいるかで年を区別することが可能なのだ。
このために古代中国では木星のことを歳星と呼んでいたんだよ。
この木星の天球上の位置区分を十二次と言って、十二支による方位区分に対応した天球上の太陽や月の動きを見る十二辰と共通なのだ。
ところが、木星は太陽や月とは違って天球上を西から東に動くんだよね。
そうすると、十二次上の移り変わりはいわゆる十二辰上の移り変わり(十二支に対応)の順序と逆になってしまうんだよね。
なので、十二辰上を動く架空の惑星を想定することにしたのだ。
それが「太歳」で、木星の天球上の見かけ上の動きの円軌道に直径を引き、木星と線対称の位置にある星として便宜的に使うことにしたんだ(その直線の引き方は暦法ごとに異なっているのだ。)。
この太歳は太陽や月と同じように十二辰上を十二支の順番どおりに動いてくれるので扱いが楽なんだよね。
実際に観測した木星の位置から計算しないと行けないのでちょっと面倒なんだけど。
木星(歳星)も太歳も12年周期なんだけど、これに十干を組み合わせると60通りになるので、当時の平均寿命から考えると、生きている間の各年を干支をもとにした区分で区別できることになるのだ。
還暦で一周だけどせいぜい二回り目があるかどうかだから、「前の・・・」と言えば区別可能だよね。
こうして、木星或いは太歳の位置で60通りに年を区別する干支紀年法が誕生したのだ。
またここで問題があって、木星の公転周期は実際には11.862年で12年より短いので、十二次上の歳星或いは十二辰上の太歳はより早く動いてしまうのだ。
ちょっとずつずれていって、約86年でまるまる1区分ずれてしまうので、補正が必要なんだよね。
そこで、一つとばしで2つ先に進むという「超辰」という補正が行われていたんだ。
これが干支がずれてしまう理由で、正確な60年周期にならない原因だったのだ。
とは言っても、そもそも太歳は実際には存在しない星だし、いちいち木星を観測せずに60年周期で計算した方が楽だということもあって、漢の時代になると干支で年を表しつつも木星の動きと関連づけない暦法が採用されることとなったのだ。
以降はきちんと60年周期となるわけ。
それが漢の元和2年(85年)のことなので、それ以前はずれあり、それ以降はずれなしで計算すると、紀元前660年の辛酉の干支が出てくるそうだよ。
いやあ、複雑なのだ。
話はもどって、建国記念の日の前身(?)の紀元節は、当初は1月29日に設定されたんだよね。
これは明治6年(1873年)の旧暦の1月1日に当たる日付で、「春正月」の「朔」だから、立春のある月の朔日=旧暦の1日ということで機械的に当てはめたのだ。
ところが、明治政府は、旧暦で祝っていた祝日は新暦でそのままの日付で設定し直すという方針もとっていたので、これが旧正月のお祝いと勘違いされて混乱を来すこととなったのだ。
もともとは複雑な旧暦と新暦の換算をせずにすむように、ということだったんだけど、なんのゆかりもない新暦の1月1日だけでなく、古来親しまれてきた旧暦の1月1日が祝日で残されたように思われてしまったというわけなのだ。
そうすると、天皇親政を歌っている制覇、この日が神武天皇即位の日だという認識が広まらないことをおそれ、文部省天文局に計算させて、翌年の明治7年(1874年)からはからは2月11日という新たに計算した、旧暦に対応する日を定め直したんだって。
その計算方法の詳細は不明だけど、上記のようなことが勘案されたようなのだ。
というわけで、経緯も興味深いけど、その後ろで行われた計算も実は複雑怪奇だったのだ。
いやあ、建国記念の日っていうのはつくづく曰く付きの祝日なんだねぇ。
とにかく、この時期に貴重な祝日を作ってくれた先人に感謝し、ゆっくり休むしかないね♪
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