命がけの交流
最近、井上靖作「天平の甍」を読み始めたのだ。
入唐した留学僧が、日本に正式に戒壇を設置し、戒律を伝えるために、鑑真和上を招来した話だよ。
淡々と書かれているんだけど、これがなかなか興味深いのだ。
鑑真和上の渡日以降、日本でも正式に受戒が行えるようになり、仏教がさらに交流していくことになるのだ。
その後、戒壇院設立でもめて頼豪阿闍梨が妖怪の鉄鼠になった、なんて話も出てくるのだけど・・・。
遣唐使は、遣隋使に引き続き、大和朝廷が大唐帝国に国使として使者を送るとともに、留学生を送り込んで最新の技術や文化を学ばせるためのものだったわけだけど、中国側からはあくまでも「朝貢」とみなしていたんだよね。
日本は対等の立場で国使をやりとりしていた、というスタンスだったのかもしれないけど。
で、通常朝貢は年1回が原則なんだけど、日本の場合は海を隔てていて遠いこともあり、20年に1度で言い、と言われていたのだ。
ただ、日本側としてはパイプも作っておきたいし、最新の情報もほしいので、それより高い頻度で送っていたみたい。
数え方はいろいろあるようだけど、だいたい十数年に1回の頻度。
これだと少ないようにも思えるけど、実際には身命を賭した航海が必要だったし、莫大な費用もかかるので、けっこうすごいことだと思うよ。
遣唐使船として使われていたのは、西洋式の竜骨が中央にある船ではなくて、東洋式の「ジャンク船」と呼ばれる船に似た箱形の船だったようなのだ。
大きな箱が海に浮かんでいるイメージ。
非常に不安定な船で、強風や波浪に弱かったと考えられているのだ。
宋代以降のジャンク船は技術も発達し、同時代の西洋船舶より優れたところもあったんだけどね・・・。
この当時の日本では、百済から伝わったと思われる技術で独自の様式で作っていたようなのだ。
大きさは、幅7~9m、長さ30mほどの船で、通常は100~150名が乗り込んで、4隻で出港したのだ(当初は1~2隻だったみたいだけど。)。
造船技術の問題もあるけど、航海技術も未熟ということもあって、すべてでなくてもどの船かが到着できればいい、というリスク回避の意味もあるのだ。
乗り込んでいたのは、国使であるところの大使や副使などの官僚のほか、船を航行させる技術者や水夫(かこ)、訳語(通事)、船大工、医師・薬師、陰陽師(主に吉凶の占いを担当)、鋳物師・画師などの職工などが乗り込み、留学生や留学僧が加わっていたみたい。
留学組で有名どころだと、阿倍仲麻呂、吉備真備、空海、最澄なんかだけど、歌人としてもメジャーな山上憶良も行ったことがあるみたい。
遣唐使の派遣が決まると、派遣する人(留学生・留学僧を含む。)を決めるとともに、大型船の建造が始まるんだよね。
朝廷が命令して各国に作らせるので、大きさと形状はだいたい同じでも、船自体は4隻ともばらばらだったようなのだ。
この準備に数年かけ、いよいよ出港となるわけだけど、中国側からは「朝貢」と見なされていることもあり、年賀(旧暦)の祝賀に参加するべく、夏前に出港することが多かったようなのだ。
2~3ヶ月かけて海路を行くんだけど、まさに台風シーズン。
基本は暴風雨に見舞われることになるんだよね・・・。
もともと、もっと多くの人を連れて行きたい、もっと多くのものを持ち帰りたいと積載オーバー気味だったこともあり、転覆しやすかったようなのだ。
まさに命がけで渡っていったんだよね。
もともと遣唐使船は、大阪の難波津を出た後、瀬戸内海を航行し、福岡から朝鮮半島西側沿岸を通って遼東半島・山東半島に向かっていたらしいんだけど、任那日本府が消滅し、新羅が朝鮮半島を統一してからは日本はまったく半島に足がかりがなくなったので、この航路がとれなくなったのだ。
この北路だと途中で何度も朝鮮半島沿岸部で碇泊・補給できるし、安全なルートだったんだけどね・・・。
そこで考え出されたのが危険な南路。
福岡から五島列島に出て、そのまま東シナ海を横断、中国の蘇州当たりを目指す、というものなのだ。
東シナ海は、春夏に西南の風、秋冬に北東の風が季節風として吹くので、通常は秋冬に大陸に向かい、春夏に帰ってくるのがよいのだ。
帰りは対馬海流もあるので、順風であればわりと安全に航行できるはず。
ところが、出発が夏前なので、まさに逆風の中を進むことになっていたんだ。
順風や凪になるまで碇泊し、ちょこっと航行して、暴風雨や強い波浪に耐えながら中国まで漂着する、という感じだったみたい。
風向きが悪いと、更に南の奄美諸島を通ったルートもあったみたい。
当時は羅針盤もなく、星を見て方角を定めているだけだし、航海技術も未熟なので、ねらった港に行き着くことはほぼ不可能で、なんとか近辺にたどり着ければ御の字だったのだ。
場合によっては、もっと南のヴェトナム(チャンパ)やインドネシアに行ってしまうこともあったみたい。
なので、中国にうまく辿り着けた場合は、その地の役人に自分が国使であることを伝え(長汀からの信書などを見せる等々)、陸路で長安又は洛陽に向かったようなのだ。
平城遷都1300年記念の時には平城京跡に遣唐使船が復元されたみたいだし、上海万博に併せて、実際に海を航行する遣唐使船が復元されるプロジェクトもあったみたいだよ。
ボクもちょうどそのころ、ゴールデンウィークを活用して大阪に遊びに行っていて、天保山のアリーナに碇泊している遣唐使船を見ていたのだ!
この船は日本国内は自分で航行し、最後は貨物船に引かれながらだけど上海まで行ったみたい。
この遣唐使を終わらせたのは菅原道真さんだけど、実は最後の遣唐使大使に任命されているんだよね。
命の危険があるにもかかわらず、当時の唐は衰退し始めていて、すでに危険を冒してまで施設を送る必要はないのではないか、ということで終わらせたのだ。
きっと自分も行き着く気がしなかったんじゃないかな?
全船が往復できることはまずなく、行きや帰りで何名も亡くなっているからね・・・。
それに、文化・技術の交流という点では、すでに民間ベースの交易もあったみたいだし(こっちは季節風をうまく使って行き来できるので比較的安全。)、わざわざ国の使節として送る必要性は乏しくなっていたんだろうけど。
それにしても、当時のことを考えると、感慨深いよ。
中国大陸は文明の頂点にあって、そこに技術と情報を求めて命がけで人々が渡り、日本に持ち帰ったのだ!
今の日中関係はというと、なんだかなぁ、というところだよねorz
でも、中国には潜在力があるはずで、今は政治状況の問題もあっていろいろ難しいけど、やっぱりアジアを代表する大国だから、日本との関係は続いていくはずなのだ。
遣唐使を廃止したときのように、今現在も中国とのこれからのつきあい方を考えていかないといけないターニングポイントに来ているような気がするのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿