2026/04/25

き、び、だ~ん

 スーパーで売っていて、なんだか懐かしくて買ってしまったのだ。
駄菓子のきびだんご。
なんか茶色い長細い餅菓子で、オブラートに包まれているんだよね。
基本的にはボンタンアメが大きくなったようなものだけど、かんきつの風味はな甘いだけのもの。
子供のころは30円くらいで買っていた気がするけど、今は60円だったのだ。
それはそれとして、きびだんごってこういうものなんだっけ?

岡山名物として売られている吉備団子はうるち米の粉を水飴で練って作った求肥のお菓子。
きな粉がまぶされているけど、ものによっては穀物のキビの粉で風味付けをしているというけど、それは見たことないな。
ま、普通に「すあま」の仲間だよね。
水あめで練ることで保水力が高まるの絵常温でしばらく置いておいても硬くならないのだ。
焼くと香ばしいかな?、と思ってオーブントースターであたためようおすると、でろんでろんにとろけちゃうよ。
で、桃太郎が犬・猿・雉に与えたのってこれなんだっけ?

どうも、米粉で作るきびだんごは江戸時代の後期に発明されたものらしい。
穀物のキビ(黍)と岡山周辺の古い地方名の吉備をかけて「吉備団子」としたみたい。
なので、キビで作った黍団子とは違うのだ。
おそらく最初期はキビを少し混ぜて風味付けくらいはしたかもしれないけど。
桃太郎の話の起源には諸説あるけど、どれにしても明らかに江戸時代より前の話なので、おじいさんとおばあさんが作ったのはキビの団子の方だよ。

キビは、雑穀として健康食品の中に入っていたりするけど、それと鳥の餌以外ではあまり見かけることのなくなった穀物。
そのむかしは、荒れた土地で水が少なくても短時間で栽培できる穀物だったので重要な農作物。
夏にまけば秋には収穫できるので、稲の生育がいまいちだな、と思って時点で追加で栽培を始めることもできるのだ。
とはいえ、その生命力の強さから雑草としても広まっているとか。
今ではあまり食べなくなってきているから余計にね・・・。

手がかからずに育てられる穀物ということで古代においては重要度が特に高く、特に古代中国では祭祀には黍(もちきび)と稷(うるちきび)が重要な役割を持っていたらしいのだ。
「社稷( 古代中国で、天子や諸侯が祭った土地の神=社と五穀の神=稷)」という言葉にも表れているけど、古代中国では祭壇に黍から作った黄色い色のついたお酒を供えていたらしいよ。
その後、南方で稲(米)の栽培が盛んになると、米の方が味がよいこともあってそれが穀物の第一位になるようなのだ。
でも、中国の戦国時代より前(夏殷周の三代)、孔子の時代にはまだキビは重要な穀物扱いだったそうだよ。

で、どうやって食べるかと言えば、粒のまま粥にして食べる、粉にしてから生地にする、発酵させて酒にするなどの使い道があるのだ。
日本の場合は農業の開始=稲作なので、米と一緒に炊く「雑穀米」のような食べ方が多かったみたい。
2割ほど米に混ぜて炊くと甘みと独特のほろ苦さが出てそれなりにおいしいのだとか。
桃太郎の吉備団子は、粉にしたキビを水や湯で練って丸めたもので、黄色い色の団子だったようだよ。
米より甘みが強いし、昔のことなので、砂糖の灰っていない自然な甘さ、のはず。
これはちょっと食べてみたいかも。

現代では、動物用の飼料のほか、雑穀米に少し入っていたり、焼酎の原料になったりしているみたい。
穀物としてのスペックは高そうだからもっと活躍できそうな気はするけど、どうなんだろう?
スーパーフードと言われるアマランサスに比べると少し見劣りするのかな?
日本でいまいちマイナーできたのは、麦であれば秋に播いて春に収穫できるので米の裏作で二毛作ができるし、そばだと秋そばや春そばなど甘利季節を選ばずに栽培できるけど、キビだとどうしても米と栽培・収穫時期がかぶるからなんだよね。
とにかくどこでも米を作ろうと執心してきたのが日本の農業の歴史だからね。

2026/04/18

明けない夜はない

 テレビの「マツコの知らない世界」を見ていたら、地獄について研究している人が開設していたのだ。
何の気なしに見ていたんだけど、そこでの説明に思わず聞き入ってしまった。
それは、仏教の地獄は兆年オーダーで刑期があるけど終わりがあるのに対し、キリスト教の地獄は永遠に続くもので終わりがない、という説明。
え、そうだったんだ!
生前罪を犯した人が攻め苦しめられるという点でだいたい同じような感じで、洋風化和風のテイストの違いかと思っていたよ。

日本でいう仏教の地獄は大陸伝来のものが日本で仏教が布教される際にさらに少しアレンジされたもの。
もともとインドの土着的な信仰(ヒンドゥー教)が土台にあって、そこに中国の道教の影響が入り、最後に和風に、ということなんだよね。
で、どうした出来上がった地獄観はすごくて、いわゆる八大地獄というのがあって、罪の重さで地獄の責め苦の苛烈さも変わる、というもの。
ずっと殺し合いを続けるとか、ずっと融けた金属を飲まされるとか、針の山を登らされ、血の池に沈められるとか。
そういう「地獄絵図」というのイメージ化したものまであって、仏教を信仰し、善行を積まないと地獄に落ちるわよ、と脅していたわけだね。
一般に「北風」政策と「太陽」政策だと「太陽」政策で看過した方がよいと言われるけど、宗教に傾倒するときはどうしても精神的に弱っているときなので、こういう脅しの方がいいみたい。
南無阿弥陀仏と唱えれば阿弥陀如来の自費で極楽浄土へ行ける、というよりも、もともとの罪悪感にも訴えつつ、ウソついたりモノを盗んだりすると地獄の責め苦を受けるよ、という方が効くようなのだ。

で、この地獄の責め苦は兆年のオーダーで続くらしいんだよね。
どもそも地獄の底に落ちるのに二千年かかるとかいう話もあるし・・・。
どうも、地獄での一日というのがこの世で言うともっと長い時間に相当するようで、それ計算式に当てはめるとそうなるみたい。
そもそも弥勒菩薩がやってくるのは釈迦の入滅後五十六億七千万年後とかいう時間間隔だから、それより桁二つ、三つ大きい、というくらいの価格なんでしょう。
それでもすごいことになっているけど。

では、なぜ終わりが想定されるか?
神道の世界だと、もともとこの世(=現世)とあの世(=常世)は連続的な世界だったけど、伊弉諾尊が黄泉の国との間にある黄泉比良坂に道返しの大岩を置いて分断したことになっているのだ。
それで、死んだ人は一方通行で黄泉の国に行って、戻っては来ないんだよね。
行った先でどうなっているかはわからないけど、伊弉冉尊がそこにいたことを踏まえると、なんらあの形で存在していると思っていたんだろうなぁ。
ただし、実際に肉体を保持したままだと、妖怪ハンターの「生命の樹」に出てくる「いんへるの」のように間人電車のごとく人が詰まってしまうから、体積を持たない、例的な存在なんだと思うけど。
それはさておき、この考えだと戻ってこないから地獄の責め苦も永久に続いていいはずなのだ。

ところが、インドの死生観は「輪廻転生」であり、死んでは生まれ変わるというサイクルを繰り返す、というのが基本。
ここから永久に解脱することが仏教の目的なわけだけど、仮に永遠に続く地獄を想定してしまうと、デッドエンドに入ってそこに永久につかまる=形式上は輪廻転生から外れる、ということになるんだよね。
それだとまずい(のかどうかはよくわからないけど)、ということで、はるか先の未来では輪廻の輪に戻ることになるのだ。
それが兆年オーダーというほぼほぼ無限に思えるような有限の期限になるわけだね。
で、地獄に落ちた後も、地蔵菩薩による隙があったりと救済のシステムがあるのだ。
しょせんは地獄も輪廻転生の輪の一部でしかないので、たとえいったん抜けてもまた落ちるかもしれないわけで、そこから逃れることこそが好きになわけだね。
でも、最後に必ず救われる道は残されているのだ。

一方、キリスト教的な地獄は一方通行。
一般的には、地獄の門の前に十二支との筆頭のペトロがいて、天国に行ける人リストを確認して、OKの人だけ通す、という運用。
その他の人はいわば地獄行き、しかも、片道・・・。
仏教的な地獄は閻魔大王などによる裁判というか審査というか、そういうのがあって行先が決まるけど、すでに死んだ時点で神の最低で天国に行ける人とそうでないとが振り分け済みなんだよね。
それが唯一の万能神というものか。
ということは、生前に天国にけるよう努力をしないといけないわけで、そういうのが「免罪符」みたいな発想になっていくんだよね。
だって、一度地獄域になったらそれで終わりだから。

でもでも、カトリックだと多少構成の道が残されているのだ。
それがダンテの「神曲」にも出てくる、天国と地獄の中間の煉獄というところ。
地獄に落ちたら一巻の終わりなんだけど、煉獄の場合は長い時間かけて構成すれば天国まで至れるのだ。
で、こっちの世界では、天国も永遠に続くので、そこまでいてしまえばあとは安泰なんだよね。
ただし、実はキリスト教成立前に亡くなった人で、地獄行きほどの悪さはしていないような人は、地獄の手前の辺獄というところに永久に拘束されるのだ・・・。
キリスト教に帰依していない限り天国への道は開かれないらしい。
いずれにしても、なんだかシビアな世界なのだ。

2026/04/11

日差しは夏並

 春は三寒四温とは言うけど、すでに4月にして夏日になったりしている。
可と思えば、かなり寒い日もまだ残っている。
体調を崩しやすい季節なんだよね。
でも、その中でも特にきつかったのは、晴れていて日差しは強いけど、北風が冷たかった日。
日向の日光はじりじり来るくらいの厚さなんだけど、風がとにかく冷たくて。
でも、日本の春の日差しってこんなに強かったっけ?

調べてみると、実は春になると日差しはかなり強くなっているのだ。
紫外線なんかではよく言われるけど、夏の最盛期に比べても7~8割くらいの強さになっているらしい。
冬至が底辺で夏至がてっぺんとしても半分を超えたくらいじゃ、って感覚なんだけど、そうではないのだ。
太陽の南中高度の季節変化は線形で一次関数的な変化なんだけど、その南中高度の変化に伴う太陽光の減衰の変化はそんな単純な変化ではないというわけ。



地球は十分に起き糸仮定して、地面も大気層も水平という仮定を置いて簡単に模式図を書くと、太陽光が地面に届くまでに通ってくる大気中の距離(光路)は、南中時の仰角をx(ラジアン)とすると、大気層の厚さに対し、1/cos(π/2-x)倍、すなわち、1/sin(x)倍の長さになるのだ。
それをπ/2、つまり90°までプロットしたグラフで見てみると、東京における、冬至、春分・秋分、夏至の南中高度はそれぞれ、

 冬至:    31.6°(ラジアンでは0.55)
 春分・秋分: 55.0°(ラジアンでは0.96)
 夏至:    78.4°(ラジアンでは1.37)

になるのだ。
で、実際に曲線状の位置を確かめてみると、冬至から春分に向かうときは変化率が大きく(微分したときの傾きが大きく)、春分から夏至に向かうときはにぶってくるのがわかるのだ。
実際に光路の模式図を見ても冬至と春分、春分と夏至で長さの変化の違いがわかるよね。

つまり、何が言いたいかというと、春分を過ぎて春から夏に向けて太陽光が大気層を通ってくる光路の長さはそこまで大きく変化しないのだ。
太陽光の減衰(散乱や吸収)は当然のことながら光路の長さに比例するので、減衰の変化率もこのグラフと同じようになるわけ。
春先にぐっと日差しが強まるとそこからずっと強い状態が続くことになるというわけだ。

ちなみに、日本より緯度が高いパリの場合、南中高度は、

 冬至:    17.8°(ラジアンでは0.31)
 春分・秋分: 41.2°(ラジアンでは0.72)
 夏至:    64.6°(ラジアンでは1.13)

なので、東京の場合よりこのグラフの左側にシフトするよ。
そうなると、季節変化はより大きくなるわえで、冬から春にかけてはかなりの差があるのだ。
また、春から夏にかけてもけこう落差があることがわかるよ。
ちなみに、南中高度はだいぶ異なるけど、東京都パリで夏至の光路の長さはほとんど変わらないんだよね。
逆に当時は差が大きいけど。
つまり、夏の日差しは高緯度地域でもそこまで弱くならず、冬は高緯度地域は日差しが弱いということなのだ。
またm¥、緯度が低い地域の方が当時と夏至の高度差が小さくなるので、つまり、日差しの強さの季節変化も小さくなるのだ。
つまり、熱帯に近づけば四季の変化は小さくなっていくというのとも整合しているよね。

2026/04/04

糸引く水

 ネットで「納豆水」という不思議な言葉を見たのだ。
何かと思えば、納豆の張っていたパックに水をしばらく張って、水の中に納豆菌を溶かし込んだものらしい。
それがいろいろと役に立つというのだ!
うちも割とよく納豆を食べるから、これは聞き捨てならないぞ、と少し調べてみたよ。

納豆菌は枯草菌の一種で、まさに枯草に普通に付着している細菌。
でも、この枯草菌の仲間は非常に強い菌で、「芽胞」という状態になると、高熱にも耐えるのだ。
実際、納豆の製法では、稲わらをゆでてそこに蒸した大豆を詰める和kだけど、このゆでる過程で納豆菌以外の細菌はほとんど死滅するので、納豆菌による発酵が進む、ということなのだ。
繁殖力も強く、日本酒や醤油・味噌を扱っている職人さんは納豆を食べないんだよね。
麹や酵母がすべて納豆菌に駆逐されてしまうから・・・。
ボクも学生時代に細胞培養をしていたことがあったけど、細胞を触るときは納豆は食べないように、と言われたものだよ。

そんな納豆菌の強さを活かすのが「納豆水」。
一つの使い方は、家庭菜園や植木などに使うんだって。
そう、そのまま納豆水を土にかける・・・。
乞うsることで、土壌中で納豆菌が有機物を分解し、植物に必要な栄養素を作り出すとともに、持ち前の強い繁殖力で他の菌の繁殖を抑えるので、病害にも強くなるのだとか。
納豆を食べた日に納豆パックに張っておいた水をかけるだけなららくちんだ。
ちょっとにおいはありそうだけど。

そもそも枯草菌の仲間は農業では有用微生物とされていて、有機物を分解して土をふかふかにし、栄養素も作り出して根を張りやすくさせ、さらに、病害も防ぐのだ。
市販もされていて、濃い現役を薄めて巻くんだそうだよ。
納豆パックにためた水はまさにそのような薄めた状態の菌液になっているわけだ。
「枯草菌」という名前から受けるイメージだと、「草を枯らすのでは」とも思えるだけど、上述のように枯草から見つかる菌ということなんだよね。
最初は干し草を水にさらし、その水の中で発見されたらしいよ。

もうひとつの役に立ちそうな使い方が、排水口の洗浄。
排水口のぬめりやにおいの原因は、一部残ったゴミやカスに雑菌が繁殖するからなんだけど、そこにより強い納豆菌を持ってくることで駆逐してしまう、ということらしい。
ただし、水が常に流れている状態だと納豆菌も流されて行ってしまうので、寝る前など、しばらく水を流さないタイミングで納豆水を使うのがよいのだとか。
さらに言えば、直前に一度熱湯を流したうえで納豆水を流せば、熱で殺菌したうえでそこに納豆菌が生えるのでより効果が上がるはず。

我が家は金属イオンの殺菌効果を狙って、使用済みのアルミホイルを丸めて排水口に入れているのだ。
効果がどれだけ出ているかは正直わからないのだけど、少なくともにおいがしてきたことはない。
納豆水はこれを越えることができるのか。
次に納豆を食べた機械でぜひ試してみたいなぁ。
そのためには、納豆パックに水を張って夜まで待つ必要があるのか・・・。
それもなんだかな。

でもでも、こういうのは意外と生物学的対処法の方がよかったりするんだよね。
これから気温が上がると菌の繁殖力もあがるし。
やっぱり納豆パワーの実力を見てみたい気もする。
それにしても、安価で栄養豊富でおいしくて、さらに、食べた後のパックまでさらに使えるなんて、納豆はすごいやつだ。