本来は女性がダメってことではないんだよ
また再び皇位継承問題が議論され始めているよね。
今上天皇直系に男子皇族が不在だったときに大きく議論され、秋篠宮家に悠仁親王殿下が御誕生になってからは一時期下火になっていたのだ。
ところが、また「女性宮家創設問題」として再燃しているんだよね・・・。
政府は皇位継承問題とは切り離す、と言っているけど、将来的な男系継承の不安が払拭できないこともあって、先に手を打とうとしていると言われているのだ。
そもそも、皇位継承については、日本国憲法第二条において「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」と定められているんだ。
で、その皇室典範では、その第一条で「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」としていて、さらに第二条で皇位継承順位を定めているよ。
皇長子(長男)=>皇長孫(長男の男児)=>その他の皇長子の子孫(長男系の子孫)=>皇次子及びその子孫 (次男系の子孫)=>・・・。
旧家族制度の嫡男が家を継ぐ、というのと同じなのだ。
これを現在の皇室に当てはめると、皇位継承順位第一位、すなわち東宮(皇太子)は徳仁親王殿下で、皇太子家には他に男性皇族がいらっしゃらないので、第二位は皇太弟たる文仁親王殿下(秋篠宮)で、第三位がその長男になる悠仁親王殿下なのだ。
なので、ここまではとりあえず皇嗣は保たれているんだけど、その先が不安だというんだよね。
というのも、戦後の皇室では側室を廃止しているので、一夫一婦制の元で男児を設ける必要があるのだ。
精子の遠心分離を使った産み分け(精子は♀になるX染色体を持つものと♂になるY染色体を持つもので主さが違うので、ある程度遠心分離で分けられるのだ。)なんかもあるにはあるけど、極力自然な形で皇嗣を保ちたい、ということなんだよね。
この議論でよく誤解されるのが、女系天皇と女性天皇。
保守的な人たちは、皇室は神武天皇以来万世一系を保ってきていて、それがここで崩れる、という主張なんだけど、あれ?、女性の天皇っていなかったっけ?、ということになるのだ。
もちろん、聖徳太子が補佐した推古天皇や、百人一首で「衣ほすてふ天の香具山」と詠んでいる持統天皇は女性天皇として有名だよね。
でも、これまで10代8名在位した女性天皇はすべて「男系」の継承なのだ。
つまる、父方の祖先をたどっていくと神武天皇行き着くというわけ。
「女系」というのは母方だけが皇室の血を引く継承なので、父系をたどっていくとあるところで入り婿の祖先の方に行ってしまうのだ。
ま、実際には実在がほぼ確実と言われているのは15代応神天皇だし、その後25代武烈天皇から26代継体天皇のところはあやしさもあるし、さらに、南北朝のところでもちょっと気になるところはあるけど(笑)
とは言え、父系・男系でつないできているのは確かなんだよね。
古代日本では女性の方が力を持っていた(卑弥呼とか?)とも言われるけど、それとこれとは別みたい。
実際に在位した女性天皇がどうなっているかというと、わかりやすいのは持統天皇・元明天皇・元正天皇の流れなのだ。
41代持統天皇は38代天智天皇の皇女で40代天武天皇の皇后だったわけだけど、皇太子たる嫡男の草壁皇子は即位前に夭折してしまうのだ。
でも、すでに皇太孫たる軽皇子が生まれていたので、この孫に皇位継承をさせようと画策したんだよね。
ここで問題となったのは、当時は父から子へ、子から孫へという直系皇位継承だけなく、兄弟相承と言って兄から弟へという継承のかなりポピュラーだったのだ。
このとき、天武天皇は皇族でない女性との間に生まれた長男の高市皇子という皇族がいたのだ(同じく皇族を母親とする大津皇子は謀反の罪で殺されているのだ。)。
ただし、皇位継承順としては皇女の系統が重んじられたため、草壁皇子が立太子し、高市皇子は太政大臣などとして執政に当たっていたんだよね。
で、普通なら草壁皇子が亡くなると、次に有力な高市皇子が台頭してきてもおかしくないんだけど、天武天皇薨去後しばし皇后として国を治めていた持統天皇は我が孫に皇位を次がせるため、幼い皇太孫に代わって自らがリリーフとして即位し、軽皇子に立太子させたのだ。
軽皇子は後に即位して42代文武天皇となるんだけど、やっぱり幼い子(首皇子)を残して若くして薨去されるのだ。
で、やっぱりその子には皇位継承をまださせられないので、文武天皇の母である43代元明天皇が即位(皇太子妃から皇后を経ずに即位。)。
さらに、その後文武天皇の妹の44代元正天皇(唯一の独身で即位した女性天皇)につないだ上で、首皇子は45代聖武天皇として即位するんだ。
このとき持ち出してきたと言われるのが「不改常典(あらたむまじきつねののり)」というもの。
天智天皇が定めた、ということで出てくるんだけど、実は明文化されたものではなく、元明天皇以降即位の詔で言及されているだけのものなのだ。
これが直系継承の基本となる理論とされていて、兄弟相承でなく直系継承こそが皇位継承の原則である、とするとしているんだ。
当然この間にも有力な男性皇族はいたわけで、やっぱりここまでの継投策はけっこう無理があったようで、こういう理屈を持ち出す必要に迫られたようなのだ。
でも、こうして古代日本社会で皇位継承の原理原則が確立し、以降はそれに則ってつながれてきているんだよね。
とは言え、聖武天皇の後の孝謙天皇のところですでにあやしくなっているんだけど、けっきょくはかなり離れたところからでも男系の皇族を見つけてきて即位させているのだ。
これが現在の皇位継承問題で話題になっている、女性宮家の創設ではなく、皇籍離脱した男性の元皇族の皇籍復帰の議論にもつながるのだ。
実際に、継体天皇なんかは応神天皇の5世孫とか言われるし(ほとんどたどれないよね・・・。)、聖武天皇皇女で皇位を継いだ46代孝謙天皇の次代の47代淳仁天皇は天武天皇の孫にあたるので、聖武天皇・孝謙天皇から見るとかなり遠い親戚になっているのだ。
しかも、淳仁天皇は恵美押勝の乱の後に上皇だった孝謙天皇に退位させられてしまい、その後は孝謙天皇が重祚して48代称徳天皇になるのだ。
でもその次は天智天皇の孫に当たる49代光仁天皇が即位するんだよ。
もう行ったり来たりでわけわかめ(>o<)
そんなわけで、特に古代は複雑に皇位継承をしてきたんだけど、一応男系継承は守られているみたい。
で、上で出てきた「不改常典」は明治維新後、旧皇室典範の第一条「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」という形で明文化され、現在の皇室典範につながるんだ。
これで正式に男系直系の継承が原則として定められたわけ。
この伝統を最大限重視するなら、女系継承につながる女性宮家創設よりは、皇籍復帰で男性宮家の復活をするということになるのだ。
正直、ボクにはどうするのがよいかまだよくわからないけど。
ただ、皇室が日本国の象徴であり、世界に誇れるものであることは確かなので、しっかり皇室制度が維持できるよう考えていかなければならないことなのだ。
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