煮て、ほぐして、よる
群馬県の富岡製糸場が世界遺産登録の候補になったのだ!
日本の近代化を象徴する産業遺産として認められたみたい。
我が国の工業化を支えたもので、この官営工場から全国に近代的な製糸業が広がっていくことになるのだ。
連休突入直前にその報道がなされたので、観光客が一気に増えたそうなのだ。
グンマーもびっくりかな?
蚕の繭から繊維をとりだして絹を作る技術は中国発祥で、およそ紀元前3世紀には始まっていたみたい。
ところが、この技術はしばらく西洋世界には伝わらず、中国産絹が高級品としてもてはやされていたらしいのだ。
6世紀になってはじめて東ローマ帝国にネストリウス派キリスト教(景教)を通じて伝わって、そこから欧州における生産が始まったみたい。
でも、長らく製法が伝わらなかったおかげで、絹を取引するための交易路としてシルク・ロードができあがったのだ。
これで大きく文化交流は進んだから、それよかったのかな。
日本には弥生時代には伝わっていたそうで、古事記や日本書紀の神話には養蚕の由来の話が出てくるよね。
古事記ではスサノオがオオゲツヒメを殺したときに頭から蚕が発生して、日本書紀ではツクヨミがウケモチを殺したときにやはり出てくるのだ。
この神話は、イネ、ムギ、ダイズなどの主要食物の起源譚なので、それほど蚕は重要な位置を占める農産物だったということが伺えるのだ。
今でも皇室は女系皇族が養蚕業を行っているよね。
ところが、江戸時代以前の日本の絹は品質が悪く、高級な中国産絹が輸入されていたようなのだ・・・。
幕府は天領で養蚕業を奨励し、日本でも盛んにしようとするんだけどなかなかうまくいかず、八代吉宗公の享保年間になって全国的に奨励して、技術も向上してきたんだって。
江戸末期には日本を代表する輸出産業になっていて、開国以降は、関東甲信地方で生産された生糸が八王子に集結し、それが横浜に運ばれて海外に出て行くことになるのだ。
こうして新たに開港した横浜港が大きく栄えることになるのだ。
この明治期の殖産興業を代表する存在が、富岡に作られた官営の製糸工場なんだよね。
蚕の繭から絹は作るのはなかなか大変で、それが機械化されて大量生産できるようになったんだ。
欧州で蚕の疫病がはやって生産量が落ちたこともあって、一気に伸びるんだよね。
その後すぐにすいたいが始まるのだけど・・・。
養蚕農家は、蚕がさなぎになって繭を作ったところで出荷するのだ。
この繭は乾燥され、中のさなぎを殺すとともに、水分を飛ばしてカビや細菌が増えないようにするのだ。
しばらく乾燥させた状態で保存し、まとまったところで、繭の一つ一つをチェックするんだって。
穴が空いていたり、繭が薄かったり、汚れていたりという品質を落とすものをここでふるいにかけるんだよ。
そうして選ばれた繭は大きな釜の中でぐつぐつと煮られるのだ。
蚕の繭は絹を較正する繊維タンパクであるフィブロインのまわりにセリシンという膠質状のタンパク質がついた状態になっていて、水の中で加熱することでこのセリシンを溶解させ、繭をほぐれやすくするのだ。
そうすると、糸口も出てきて、繭をほどけるようになるよ。
手作業でやっていた時代は、収穫した繭を自分の家で煮て、この工程までやっていたのだ。
ほぐれた糸を収束してまとめていくとできるのが生糸。
小さく巻き取った後、大きく巻き直したりして出荷できる生糸ができあがるのだ。
今度はこの生糸を複数本束ねて、さらに糸をよるんだよね。
こうすることで、絹糸の太さが均一にでき、また、伸びと弾力が出るのだ。
さらに、この後の精錬という作業をして絹糸ができあがるよ。
「精錬」する前だから「生糸」と言うんだよね。
精錬工程では、生糸の中にまだ残っているセリシンとその他の不純物を除くのだ。
古くは灰汁で処理したんだけど、最近は石けんや炭酸ソーダ(炭酸ナトリウム)などのアルカリ水応益で処理したり、タンパク質分解酵素を使ったりするんだって。
環境に優しくするために、高温高圧下の水の中でセリシンを溶解させる、というのもあるみたい。
ただし、絹独特の光沢はセリシン由来なので、完全に落としてしまうとつややかな風合いが失われるんだって(>o<)
なので、着物などに使う場合は処理の仕方を工夫しないといけないのだ。
草木染めをする場合は、このセリシンがないと色が乗らないそうだよ。
逆に、化学染料で染色する場合は、セリシンが残っていると色むらができるので、完全に落としてから染色するんだって。
この場合、光沢は染色によってつけることになるのだ。
ちなみに、富岡製糸場では、繭の乾燥(乾繭)し、貯蔵(貯繭)してから煮て(煮繭)、小枠に糸を巻き(繰糸)、大枠に巻き直す(揚返し)ところまでをやっていたのだ。
写真などで徐行山がぎっこんがっこんやっているのは繰糸の工程だよ。
繭の糸口から糸を引き出し、何本か束ねて巻き取っていって、一つの繭が終わらぬ打ちの次の繭を用意して・・・、とけっこう大変そうな作業なのだ。
今は全自動なんだろうけど、当時は人手に依存しているところが大きかったみたい。
当時この作業をしていた女性は「工女」さんと呼ばれていて、いわゆる紡績工場の「女工哀史」とは違って、かなり環境はよかったみたい。
住み込みだけでなく通勤の人もいたみたいだし、教育の機会も確保されていたとか。
この富岡から各地の向上に技術を伝える役割も担ったんだそうだよ。
最先端の働く女性だったのかなぁ?
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