2016/03/26

何事もほどほどに

今更ながらに、テレビ番組の再放送で、ライザップへの取材を見たのだ。
話を聞いているとやりかた事態は理にかなっていて、食事制限をして糖質を抑えるとともに、筋力トレーニングで基礎代謝を上げる、という王道。
これを続けるのがつらいのだけど、高い料金と徹底指導でなんとかするんだろうなぁ、というのが印象。
でも、こういう専門家の指導の下ならいいのだけど、自分だけでなんとかしようとすると、危ないこともあるんだよね・・・。

その典型が糖質制限ダイエット。
これは、従来のカロリー全体を制限するものとは違って、総摂取カロリーは気にしなくていいから、デンプン、砂糖などの炭水化物(糖質)の摂取を極小に抑えるというもの。
実は、1970年代に一度大流行して、今またリバイバルではやっているそうなのだ。
でも、どんなダイエット法でもいいことばかり出ないのが世の常。
当然、糖質制限もメリットだけではないのだ。

糖質はヒトの体にとって非常によいエネルギー源で、主にブドウ糖(グルコース)に分解されてからエネルギーに変換されるのだ。
でも、現代のように飽食の時代、しかも、パンやごはん、イモ類などの主食系の炭水化物がいくらでも食べられる状況では、すべてをエネルギーとしては使い切れないんだ(>o<)
余った分はどうなるかというと、まずは肝臓でグリコーゲンとして蓄えられるのだ。
でも、グリコーゲンは1日分もエネルギーを蓄えられないんだ。
なので、さらにあまりがある場合、っていうか、現代ではほとんどそういう状況になるんだけど、脂肪として蓄えられることとなるんだ・・・。

糖質の摂取制限をすると、新たに炭水化物が補給されなくなるので、まずはこのグリコーゲンがぐんぐんと消費されていくのだ。
このグリコーゲンが枯渇すると、やっと脂肪が燃焼されていくよ。
脂肪は体にとっては燃焼効率がよくないので、血中の糖>グリコーゲン>脂肪という優先順位で消費されるんぢゃおね。
なので、糖質制限のキモは、脂肪を燃焼して減らしていける状態に持って行けることにあるのだ。
ライザップ式の場合は、総摂取カロリーを気にしなくていいように、基礎代謝も上げて、「燃費の悪い」体にすることで、脂肪をどんどん減らそう、という発想だよ。

これだけならよいのだけど、そうはうまくはいかないわけで・・・。
人間の体の中でも、脳は基本的にブドウ糖の代謝で動かしているんだよね。
エネルギー欠乏時には、脂肪を分解したケトン体を補助エネルギー源として使えるのだけど、それでも、ブドウ糖が全くないと機能しなくなるのだ。
糖尿病治療の副作用で「低血糖」が危険なのはこのためで、低血糖状態が続くと脳の機能が低下して昏睡状態になってしまうんだ。
なので、糖質制限も、過激にやり過ぎれば、そんな危ない状況に至ることも・・・。
そこまで行かなくても、血糖値が低いことによって、脱力感やめまい、頭痛などを感じることはあるよ。

さらに、糖質でなくて脂肪を主要なエネルギー源とした場合、血中にはブドウ糖ではなくて脂肪が分解されたケトン体がエネルギー源として回ることになるのだ。
この状態になると、口臭や体臭が甘ったるい臭いがする、と言われるのだ。
さらに、糖質制限をする場合、必然的にタンパク質の摂取量が増えるので、窒素や硫黄を含むアミノ酸を大量に代謝することになるのだ。
すると、悪臭のもととなるアンモニアとか硫黄酸化物がたくさん出てくるんだよね・・・。
これも臭いの原因で、まず便が臭くなって、さらにひどくなると口臭・体臭も悪臭になってくるらしいよ。
ちなみに、ケトン体が血中に増えている状態はいわば代謝異常の状態で、あまり好ましいものではなく、これも体の不調の原因となるおそれがあるのだ。

ライザップ式糖質制限だと、デンプンを多く含む根菜類もNGだったりするんだよね。
もちろん、果糖を含む果物もダメ。
そうなると、圧倒的に食物繊維が不足するので、下痢や便秘になりやすくなるのだ。
これも体全体のことを考えるとよろしくないよねぇ。
この食事ではビタミン類も不足しがちなので、サプリメントなどで補充しないと大変なことになるよ。

というわけで、素人が過度に手を出すと危ないのだ。
炭水化物の過剰摂取、例えば、カロリーの高いジャンクフードばかり食べるなどの行為をやらない方がよいわけだけど、かといって、炭水化物の摂取を可能な限り控えるというのもやりすぎ!
ゼロサムではなくて、全体摂取カロリーに占める炭水化物の割合を減らす方向にすべきなのだ。
そういう点では、主食は抑えめに、根菜や果物は総カロリー制限の中で適度に食べる、というのが正解なのかな?
それって、いわゆる健康的な食事になってしまうわけだけど。
それより何より、食事制限だけでなんとかしようというのが誤りなので、運動をして代謝量を減らすことも大事なのだ。
そうしないと、食事が元に戻るとすぐにリバウンドしてしまうからね。

2016/03/19

深学習の成果

Googleの子会社が作った人工知能の「AlphaGo」が、囲碁のプロ棋士を負かしたのだ!
これまで、チェスや将棋ではすでに人工知能が勝利していたんだけど、囲碁は盤面が大きくて自由度が高いためか、なかなかプロを負かすようなプログラムが組めなかったんだって。
アマレベルではそこそこの強さだったらしいんだけど。
でも、この度、人工知能がやっとプロから勝利したのだ。
なので報道されているんだよね。

この人工知能に使われているのが、ディープラーニングという技術。
機械が自ら学習し、判断できるようにするのが人工知能だけど、徹底的にいろんなデータを解析させて、認識・判断能力を高めるものらしいのだ。
今回の囲碁の対戦では、戦っている内に更に強くなっているんじゃないか、なんて言われていたけど、まさに、そういうこともあり得るんだよね。
これがどんどん進化すると、これまで人間の認識・判断能力が求められていた乗り物の運転などにも応用できる可能性があるんだ。
そうなると、SFの世界のように、勝手に指定したところに行ってくれる無人タクシーなんかが実現するかも。

もともと、コンピュータの囲碁プログラムでは、「定石」がデータとして入力されていて、実際の盤面をそれに照らして、次にどういう手を打つと勝利する確率が高くなるかを計算して、期待値が一番高い手を打つ、というイメージのものなんだよね。
なので、どこまでパターンとしての棋譜がデータとして入れられるか、それをもとに可能な手を次から次へと計算して処理できるか、というのが課題。
将棋やチェスだと、駒の動きに制限があるので「次の一手」の自由度が比較的低いのだけど、囲碁の場合はそれこそ自由に打てるので、この計算量が半端なくなるのだ。
それで処理能力が追いつけなくて、対戦できるレベルで強いプログラムを構築するのが難しかったみたい。
待ち時間無制限でどれだけ時間がかかってもよいならできたのかもしれないけど。

これは「力任せ検索」と言われている手法で、考えられるすべての可能性を試して、計算するというもので、コンピュータで微分方程式を解いたりするのに使われる手法。
でも、実際には可能な選択肢が多すぎると、現実的に計算できないという壁にぶち当たるのだ。
これを越えるために必要なのが「当たりをつける」という処理方法。
人間の場合でも、単純な問題、やったことのある問題ならすぐ解ける、というのがあるけど、それは瞬時にそれが「既知」の世界に属するかどうかを判断しているのだ。
全く同一の問題でなくても、同じような問題をやったことある場合、「こうすれば解けるかな?」という当たりがつけられるので、比較的スムーズに解けるよね。
むしろ、そういうのがないと、一生懸命算数のドリルをやる必要性がなくなるわけだけど(笑)

ところが、古典的なコンピュータの場合は、細かく条件設定をして、それぞれの条件をクリアしているかどうかをまずゼロイチで判断し、それがすべてクリアされると次へ進む(いわゆる「サブルーチン構造」)、というようなプロセスになるのだ。
なので、いちいちそれぞれの条件を判定していく必要があるんだよね。
このため、コンピュータの場合は、つるかめ算を計算する場合、頭と足の数を変えると前回と同じくらいの時間をかけて解くことになるんだけど、十分に熟練した人間だと、前にやっていればぱっと答えが思い浮かんだりするんだよね。
そういう判断がコンピュータにもできないか、というのが人工知能を構築する上での課題なのだ。

コンピュータが画像認識が得意でないのもこのためで、古典的なプログラムだと、細かい条件を設定し、それが合致しているのかどうか、そして、複数の条件のうち、どれとどれの組み合わせの場合にどう認識するかなどを全部プログラムに組み込まないとダメだったんだよね・・・。
○か×かなんていうシンプルな判断ならよいけど、「ネコ」かどうか、とかなるともうお手上げ状態。
それが「個別のそのネコ」(例えば、イソノさんちのタマ)かどうかの判断ならまだしも、それがいわゆる「ネコ」一般に当たるものかどうかなんていう曖昧な判断はできないのだ(>o<)
一方で、人間の場合は、「ネコ」というばくっとしたイメージが合って、それに合致するかどうかを瞬時に判断できる仕組みを持っているんだよね。
まぎらわしいのもあるけど、ぱっと見てすぐに「ネコ」かどうか判断できないってことはまずないのだ。

でも、これは逆の作用もあって、いわゆるそのおぼろげなイメージに合致してしまうと、「ネコ」でないものも「ネコ」に見えてしまうということも起こるんだよね。
道ばたにあったゴミ袋をネコと見間違えたりなんてのはそういうこと。
特に、○が3つあって「∵」の形で並んでいると、どうしても人間の顔に見えてくる、というのもあるのだ。
そういう意味では、これまでのコンピュータ認識では、まず心霊写真は出てこないんだよね(笑)

こういう人間の情報処理能力を機械の中で再現しようというのが人工知能。
ニューラルネットワークと言われる、人間の神経系を模した情報伝達ネットワークを、さらに複層にしたものがディープラーニングに使われているのだ。
人間の神経回路も、神経伝達物質が受容体に結合するかしないかのゼロイチ信号で成り立っているわけだけど、「学習」により、特定の神経間のつながりが強くなったり、弱くなったりすることで、複雑な情報処理が行われていると考えられているんだよね。
よく使うものは強く、あまり使わないものは弱く。
さらに、特定の信号が来たときに、別の神経の感度が高くなったり、低くなったりすることがあるのだ。
これは例えば、熱いと感じたら手を引っ込める、自分自身の臭いは感じづらいなどに現れているよね。
こういうのを再現するため、データを入力して学習させることでネットワーク伝達の重み付けを行い、階層的なネットワーク間のつながりも持たせることで、神経系回路に似せた構造を作り出すのだ。
言うのは簡単だけど、実際にそれをアルゴリズムとして組むのはものすごく難しいのだけど・・・。

こういうのを繰り返すことで、機械においても、こういう組み合わせで情報が来たら、次はたいていこうなる確率が高いので、あらかじめこうしておく、みたいな判断ができるようになるんだ。
ただし、そのためには相当な量のデータと正誤判断を入力しておかないといけないのだ。
「深く学習する」という名称は、そういうところから来ているんだよね。
人間もそうなっているかというと、全部が全部そうとは言わないまでも、そういう側面もあるんだよね。
特に、言葉なんかは周りの人がどういう言葉を使っているかでかなりの影響を受けるわけで、使用言語や方言だけでなく、語彙なども変わってくるのだ。
慣れたことなら無意識のうちにできるようになるというのも、こういう学習効果のたまものだよね。
だけど、全くの未知の事態に遭遇しても、これまでの経験を踏まえたり、踏まえなかったりしてなんとか対処しようともするんだけど、こういうのはまだ人工知能では対処しきれないんだよね。
また、音楽・美術・文学などの創造的な活動もできないんだよね。
なので、人間の脳内の情報処理はそれだけでは説明できない部分があるわけで、完全に取って代わられるということでもないのだ。
そうでないと安心できないよね(笑)

2016/03/12

花粉にもいろいろとありまして

花粉症の季節到来!
ボクは際うぃあにも発症していないので平気なのだけど、つらそうにしている人が多いね・・・。
薬で反応を抑えると眠くなるというし。
ただただ、我慢して時が過ぎるのを待つばかりなのだ。
花粉症の黒焼きだとか、花粉症と似た成分を持つものを食べるだとかの「脱感作療法」というのもあるにはあるんだけど、そんなに広がっていかないところをみると、まだまだ難しいんだろうなぁ。
でも、花粉は別に悪さをするだけじゃないんだよ!

地上の植物が他家受粉(別の個体に花粉を届け、受粉させること)をするには、大きく分けて二通りの方法があるのだ。
ひとつは蜜や臭いで昆虫などをおびき寄せ、花粉を運ばせるという戦略。
動物媒というんだけど、ミツバチなどの昆虫に花粉を運んでもらう虫媒が有名だよね。
メジロなどの鳥がくちばしで花粉を運ぶ、鳥媒というのもあるよ。
この場合、昆虫や鳥を引き寄せ、花粉のあるところまで誘引する必要があるのだ。
なので、蜜を作ったり、虫や鳥が好む臭いを出したり、花を大きく色鮮やかにしたり、というコストが必要なのだ。
ただし、その昆虫なり鳥は、花から花へと渡ってくれるので、そんなに多くの花粉を作らなくてもいいというメリットもあるんだ。
被子植物の場合は基本的にこの方法をとっているよ。

中には、花粉自体を食べさせるものもあるんだよ。
実際、ミツバチは体についた花粉を集めて団子状にまとめ、花蜜と混ぜたりしてから巣の中に貯めるらしいのだ。
これは保存食になっていて、ミツバチの巣から取り出して人間も伝統薬として使っていたらしいよ。
花粉は生殖細胞でもあるので、アミノ酸やミネラルが豊富で、なかなか滋養に富んでいるようなのだ。
たとえほとんどの花粉が食べられても、少しでもめしべに届けばいいので、それもまたあり、ということみたい。

もう一つの方法が風媒。
風に乗せて花粉を遠くまで運ぶのだ。
この場合は風任せなので、基本的には大量の花粉をまき散らすことになるよ!
なので、花粉症の原因になったりするのだ。
花も花粉を飛ばせればいいので派手なものは少なく、一見して「花」とはわからないようなものも多いんだ。
実際に、マツとかイチョウとかの花は、花粉の入った袋が大量に枝についているようにしか見えない・・・。
裸子植物は基本的にこの戦略で、進化の上では、風媒がより古い戦略と考えられているよ。
他の生物が存在していなくても、風さえ吹けばなんとかなるというメリットはあるけど、大量の花粉をまき散らさないといけないので効率は悪く、熱帯雨林のような生物種が多く住む安定的な環境では、必ずしもよい戦略ではないんだよね。

そして、風で大量散布するにしても、工夫はあるのだ。
例えば、花粉を受けるめしべは大きくて、外に張り出しているんだよね。
虫媒花の場合は、花の中に隠れていて、花粉をつけた昆虫が中に入ってきたときにちょうど花粉を受けられるような構造になっているけど、風媒花の場合、とにかくどこから来るかわからない花粉をキャッチできるよう万全の体勢を整えているのだ(笑)

それと、花粉の形状・構造も少し違うんだ。
虫媒の場合、昆虫にひっついてくれないと困るので、電子顕微鏡などで見ると表面がとげとげになっていることが多いよ。
これが粘着力を産むのだ。
オナモミの「ひっつきむし」みたいなものだよね。
一方、風媒花の花粉はさらさら。
風でよく飛ぶように、かつ、広範囲に広がるように、むしろその方がいいのだ。
マツに至っては、袋状の構造があって、そこで風を受けてより遠くに飛べるようになっているようだよ。

というわけで、スギやらヒノキやらは、基本的に風で大量に花粉をまき散らして増えてきた植物なので、花粉を飛ばすのは仕方のないこと。
問題は、比較的早く生育するとか、木材としての価値が高いとかで、自然の植生から大きくはずれるくらいまで、大量にスギやヒノキを植林したことなんだよね。
スギやヒノキは食べられる木の実もつけないので、森の中で他の動物を支えることもないのだ。
やっぱり生態系を大きく崩すと、ゆがみが出てくるってことなんだろうなぁ。

2016/03/05

四年たったらまた会いましょと♪

今年は夏季五輪の開催年。
ということは、閏年だったのだ。
2月が1日増えて29日間になるわけだけど、今のような形で4年に一度「閏日」が挿入されて暦の調整がなされるようになったのは古代ローマ時代なんだって!
帝政ローマの礎を築いた、かのユリウス・カエサルの作ったユリウス暦かららしいのだ。

古代ローマで紀元前8世紀にできたロムルス暦では、そもそも農閑期の冬の期間はカレンダーに含められていなくて、10ヶ月+冬期間で1年という感じだったんだって。
この場合、冬の期間は具体の日数が定められていないので、閏年とかを気にする必要がなかったのだ。
毎年毎年、季節の進行に合わせて暦を開始すればいいわけだからね。
1年を通してカレンダーがないとか言われると奇異に感じるけど、あくまでも1年の季節の移り変わりを知るための目安としての暦を考えると、あながち間違ってもいないのだ。

1年が12ヶ月になるのはその次に出てきたヌマ暦。
紀元前7世紀前後の話だよ。
ロムルス暦では、今で言う春の3月が1年のはじめで、冬になる12月で暦は終わり、残りは「冬」だったのだ。
ここに新たに今で言う1月と2月を加えて12ヶ月にしたんだ。
俗に、ユリウス・カエサルにちなむ「July」とアウグストゥス(オクタビアヌス)にちなむ「August」を挿入したため、10月の「October」の「octo」は「octopus(たこ)」からもわかるようにもともと「8」を意味するものだったのが、ずれて10月になった、なんて言われるよね。
でも、古代ローマの暦は、もともと3月から始まるので、今で言う10月は3月から数えて8番目の月だったのでそのとおりなのだ。
7月と8月は、それぞれ「5番目の月」、「6番目の月」と呼ばれていたものが改称されただけだよ。

このヌマ暦では、各月は29日又は31日(年末の2月は28日間)で、トータルで355日しかなかったらしいのだ。
このままだと1年で10日間強ずれていってしまため、2年に一度閏月を入れて調整したんだ。
その場合、2月を23日又は24日に短縮した上で、その後に27日間の閏月を入れたんだそうだよ。
でも、この閏月の挿入は古代ローマの戦乱による混乱の中で適切に行われず、カエサルの時代まで来ると季節の進行と暦が2ヶ月近くずれてしまっていたらしいのだ!さすが元祖ラテン気質。
そこで、平年を365日にして、4年に一度の閏年を365日にするよう暦を改めたのだ。
これがユリウス暦なんだけど、このとき「5番目の月」を「ユリウスの月」に変えたんだ。

でも、やっぱりラテン気質は変わらないのか、4年に一度なのに3年に一度閏日を入れてみたりとやはり混乱していたようなのだ。
それをただしたのがアウグストゥスで、入れすぎた閏日を一旦停止して日数を調整し、紀元8年から正しく4年ごとに閏日を挿入するようにしたそうだよ。
なんだかなぁ、という話だけど(笑)
ちなみに、このとく「6番目の月」が「アウグストゥスの月」に変わったのだ。

ところが、太陽を基準とした1年は、このユリウス暦をもってしても1年で11分くらいずつずれてしまうのだ(>o<)
時代が下って16世紀の後半になると、春分の日が10日ずれるというところまで来て、改暦が行われることになるのだ。
それで出てくるのがグレゴリオ暦。
これが現在でも使われているもので、400年間に97回の閏年を挿入するのだ。
すなわち、西暦で400の倍数以外の100の倍数の年には閏年は入れないんだよね。
2000年は閏年だけど、1900年や2100年は閏年ではないのだ。
ただし、本当はこれでも微妙にずれるので、「閏秒の挿入」みたいな話が時々出てきているのだ。
これは原子時計で超精密に時間測定ができているからなんだけど、16世紀にはもう現代でも通じるような暦法ができていたのはすごいよね。

ユリウス暦ができた際、どこに閏日を挿入するかが問題になるわけだけど、すでに新年のはじめを1月1日に指定していたにもかかわらず、やっぱり2月の末日にしていたのだ。
これはまだその当時2月が1年の終わりで、自然と調整弁になるという意識なのかもしれないけど、このユリウス暦はいっせいにローマ領内で導入されたわけではなく、徐々に広まっていったので、致し方なかった面もあるんだよね。
ローマの祭礼の日も多かったので、2月は28日間のママで据え置かれていたようだし、それが混乱を防ぐ策だったのかも。
ちなみに、当時は日数が増えると2月中の祭礼の日程がずれるので、2月24日を繰り返すという形式だったようだよ。
この24日に入れるというのは明らかにその前のヌマ暦の閏月の入れ方が残っているよね。

というわけで、2月に閏日が入るのには歴史的な経緯があったのだ。
なかなか奥が深いねぇ。
明治になったときにもう完成されていたグレゴリオ暦を採用した日本としては、正直「何でだろう?」としか思わないよね。