2021/01/30

神社の階級

よく街中で小さな稲荷神社を見かけるよね。
そして、そこにはたいてい赤い旗が立っていて、「正一位稲荷大明神」と書いてあるのだ。
この「正一位」というのは今に続く叙位制度や明治までの位階制度の階級と同じもの。
かつては、神社にも階級があって、偉い神社とそうでもない神社があったのだ。
これを「社格」と言うんだよ。

こういう階級付けは律令制が確立された大宝律令の頃に始まったんだそうだよ。
ちょうど行政機構を中国式のものに整備したときに、天皇を頂点とする神道の体系も整備したようなのだ。
で、平安時代に形式が固まっていって、その結果が延喜式神名帳の中にまとめられているのだ。
官幣の大社・中社・小社と国幣の大社・中社・小社だよ。
これが明治言い新後の神祇官組織にも援用され、さらに、郷社だとか村社だとか細かい格付けが加えられたのだ。
神様だったらみんな偉いような気がするのだけど、何かとヒエラルキーを作りたがるんだね。
こういうことすると、おらが村の神社の方が偉い、なんて争いが起こるだけなのに。
ちなみに、今の神社本庁の組織の中でもこれが生きているようなのだ。
特に社格が高い神社、有名な神社は「別表神社」と呼ばれ、神社本庁が宮司の人事権を盛っているんだよ。
それをいやがって神社本庁から離脱している大きな神社もあるほど。

で、その地域においてもっとも社格の高い神社は「一宮(いちのみや)」と呼ばれるのだ。
これは、新たに国司に任命された人が任地に赴いたとき、それぞれの任国の神様に挨拶すべく主要な神社を回ることになっているんだけど、いの一番に参拝するところだから。
国によっては、二宮、三宮とその先の順番が定まっているところもあるみたい。
東海道線の尾張一宮駅のある愛知県一宮市や、外房線の上総一ノ宮駅のある千葉県一宮町はまさにこの一宮に当たる神社の所在地なんだよね。
尾張一宮には真清田(ますみだ)神社、上総一ノ宮には玉前(たまさき)神社があるよ。
ちなみに、兵庫県神戸市の三宮はこの社格の三宮とは関係なくて、生田神社を囲むようにして存在する裔神をまつった8つの神社(生田裔神八社:一宮~八宮)のうち、三宮があるからなんだって。

これと似たようなもので、「総社」というのもあるのだ。
岡山には「総社市」もあるけど、これは総社がある場所だから。
上では、新たに赴任してきた国司は任国内の神社を挨拶回りする、としていたけど、今の都道府県より律令制の国はせまいことが多いとは言え、あまり交通手段の発達していないむかしだときついんだよね。
なので、国府(今で言う都道府県庁)のある場所に大きな神社を作って合祀し、そこに参拝することでまとめて挨拶したことにする、という習わしができたのだ。
これが「総社」。
そのまま「総社」という名前のついている神社もあるよ。
ちなみに、東京の属している武蔵国の場合は、府中の大國魂神社だよ。
大國魂神社の場合、大きな6つの神社を集めた、ということになっているので、別名を「六所宮」というのだ。

むかしは祭政一致だから、朝廷の中の行政機関を整備するのと同時に、神社の方も組織化することが大事だったんだよね。
一方で、日本の多くの神社は自然崇拝がもとになっていたりもするので、キリスト教の教会のように最初からピラミッド構造にはなってなかったのだ。
なので、枠組みを先に作って後からそこに当てはめるので、どうしても軋轢はあったみたい。
お寺も同じで、本末関係というのがあって、どっちが本山に近い、偉いお寺かでもめることがあるようなのだ。
あんまりそうやって階級を持ち込まなくてもいいのにね。
社会をシステム化するにはある程度必要なのかな?

2021/01/23

働きアリとはちょっと違った

最近ネットで見かけてびっくりしたこと。
もともとはビジネス書で紹介されていた話のようだよ。
今や動画配信事業で大手になっているネットフリック菅間だ小さい会社だった時代。
いよいよ経営に行き詰まった時があって、大リストラを敢行したんだって。
そのとき何をしたかというと。いわゆる「仕事のできない人」を全員クビにしたそうなのだ。
なんと、全社員の3割近く。
それで社員は80名くらいまで激減したんだって。

よく知られている「働きアリの法則」に従うと、これは一番やっちゃだめなやつなのだ。
ありの巣の中では、よく働くアリとサボっているアリがいて、その比率はおよそ8:2.
で、サボっているアリを排除すると、よく働くアリだけになるかと思うと草ではなくて、8割のうちの2割はサボるアリに変わるのだ。
つまり、働くアリは6割4分まで減るわけ。
そうすると、全体のパフォーマンスが下がるんだよね。

同じような話が人間社会でも知られていて、例えば、入学試験のある高校の場合、少なくとも全生徒は入学試験をパスするだけの学力があるはずなのに(中には運だけで受かる生徒もいるかも知れないけどごく少数だよね。)、しばらくしてて中間テストや期末テストをすると、生徒の成績はきちんと正規分布に分かれるのだ。
つまり、入口では一定上の学力を持つ子供だけを選ぶとったはずなのに、しばらくするとその中で成績がよい子供と悪い子供が別れてくる、ということ。
まさに働きアリの法則のようなことが起きるのだ。

で、これが企業活動にも当てはまるとすると、できない社員をリストラしても、できる社員として見なされていた社員の中から落ちこぼれが出てくるため、パフォーマンスが低下してkルことになってしまうのだ!
で、実際ネットフリックスのケースはどうなったかというと・・・。
なんと、V字回復で業績アップ。
パフォーマンスは下がるどころかむしろ上がっていたようなのだ。
その要因分析としては、いわゆる「できない社員」は「できる社員」の足を引っ張っていて、ゼロではなくてマイナスにパフォーマンスに貢献していたらしいのだ。
つまり、「できない社員」の「尻ぬぐい」のために「できる社員」のエフォートがけっこう割かれて、その分が本来業務に回せるようになったので業績が上がった、ということみたい。
経営論なんかでは、「じんざい」には、「人財」、「人材」、「人在」、「人罪」の四首里があるなんていうけど、まさに「人罪」がいたということなんだよね。

もちろん、営業成績とか見れば「できる社員」の中にも「よくできる社員」、「普通にできる社員」、「そこそこできる社員」と分かれるのだけど、これらの人は少なくともマイナスではないのだ。
これが重要。
学校の成績の例も同じで、もともとプラスの集団の中でプラスの値の大きさで差が出ているだけなんだよね。
むしろ、試験をして成績をつけないといけないので、学力の差が出るように試験問題を作るわけで、全員が満点を取るようなテストをしていてはダメなのだ。
なので、入学試験で一定以上の学力を持っている生徒だけ集めたとしても、その後成績に差がついてくることは、働きアリがサボるアリになるのとは大違いなわけ。

そして、アリの例でもサボっているアリもただただマイナスな存在ではないんだよね。
仮にそうっだたとしたら、進化の過程で淘汰されてしまうのだ。
この一件サボっているアリは、いわば「予備役」で、有事の際に活躍するために体力を温存しているアリと言うことが知られているよ。
つまり、的が攻めてきたり、大雨で巣穴に水が親友してきたりなどの有事のサインい、普段サボっているアリが先頭に立って事態の対処に当たるのだ。
全アリが普段からえさ集めや幼虫の世話に全エネルギーを振ってしまっていると、有事の際に対応しきれなくなるんだよね・・・。
なので、通常はあまり仕事をしないのだけど、何かあればすぐにかけつける、みたいな存在がいる方が生存競争上有利だったので進化の過程で残ってきた、ということみたい。
「いざ鎌倉」の武士の世界だね。

企業の中にもそういう存在は時には必要で、まさに「謝罪がうまい」、「訴訟に強い」とか有事の際に活躍できる社員をリスク対応として抱えることはあるのだ。
ネットフリックスの例だと、そもそも会社自体がそこまでの規模ではなく、そういう存在を抱えるほどの大きなリスクに備える必要がなかったので、ただ単に「仕事のできない社員」を多く抱えていた、ということなんだろうと思うよ。
むしろ、まわりに迷惑をかけて足を引っ張るような存在すらけっこういたということなのだ。
「まじめ系くず」という言葉は最近よく耳にするけど、こういうことなんだろうなぁ、としみじみ思ったよ。
自分がそういう存在にならないように気をつけないと。

2021/01/16

二重にかからない?

 コロナは全く収まる気配はないけど、その一方で、まったくインフルエンザの流行は起こらないね。
大きな理由としては、コロナ対策で手洗いや換気などが徹底されてきているし、多くの人は人混みを極力避けるので、インフルエンザ感染対策にもなっているのだ。
どちらも飛沫が気道に入ることで感染するからね。
例年のインフルエンザの流行も、ワクチンだけでなくこういう物理的防疫策を講じればかなり抑えられることがわかったのだ。
社会コストとのバランスで、今のコロナ対策並みにはできないだろうけど・・・。


インフルエンザがあまり流行していない理由のかなりの部分はこれで説明できるんだけど、一部では、二重にウイルスに感染することはまれだから、というのもよく見るよね。
実際、細菌類だと、自分たち以外の菌が繁殖できないように、まわりに化学物質を放出して「縄張り」を形成するんだよね。
それが「抗生物質」。
複数種類のカビが生えているとき、ぐちゃぐちゃに混ざって生えているわけではなく、それぞれの種類がコロニーを作って生えている様子を見て、何かあるのでは?、と調べてみてわかったんだ。
その細菌類が作っている抗菌物質を抽出し、薬にしたものが抗生物質だよ。
化学的に安定にしたり、抗菌スペクトルを広げたり(抗菌効果が発揮される細菌の範囲を広げること)、工業的生産がしやすいようにしたり、といろんな手を加えて薬になっているんだ。
青カビから抽出されたペニシリンが最初だけど、今では世界中のバクテリアやカビなどの細菌類からものすごい種類の抗菌物質が発見されているし、現在進行形で、新たに見つかった細菌類が未発見の抗菌物質を持っていないかスクリーニングが続けられているんだ。
どうしても薬剤耐性ができて、古い抗菌物質が効かなくなってくるからなんだよね(>_<)

では、ウイルスも同じような仕組みなのかというと、これは大違い。
ウイルスの場合は、他のウイルスを駆逐するような化学物質を作るわけではないのだ。
抗ウイルス剤の多くは、ウイルスに特異的なタンパク質の合成を阻害したり、ウイルスの核酸(DNA又はRNA)合成経路を阻害したりする化学物質なんだけど、これは抗生物質などを応用したもので、ウイルス由来ではないのだ。
そもそもウイルスは最低限のタンパク質と遺伝情報しか持っていない非生物で、増殖するには宿主のタンパク質や核酸合成のメカニズムを借用するものなのだ。
宿主に自分のコピーを作らせてばらまくのだけど、そのときに最低限必要になるようなものしかもっていないんだよね。


では、なぜ他のウイルスを排除できるのか?
実は、二重にウイルス感染しない、と言ってしまうと大ウソなんだよね。
だって、HIVの感染者も、E型肝炎ウイルスのキャリアも、ウイルス性の風邪はひくんだよね。
二重に感染しにくい、というのは、同じような経路で感染するウイルスの間でのことなのだ。
つまり、今話題になっている、コロナとインフルエンザの関係。
ほかに、ウイルス性の風邪の原因になるアデノウイルスなんかも同じような感染経路だよ。
これらの間では、ウイルス同志が干渉し合うので、どれかに感染していると、別のウイルスに感染しづらくなると考えられているんだ。

完全に化学的に解明されているわけではないようだけど、有力な説は、ウイルスに感染すると、感染した細胞の膜表面の構造が変わって、他のウイルスが感染しづらくなると言うんだ。
これらのウイルスは、細胞膜表面のタンパク質にくっついて、自分の殻の中の核酸(遺伝情報)を細胞内に送り込み、それを元に自分のコピーを増やそうとするのだ。
で、細胞内でウイルスのコピーが増えてくると、その感染細胞から最終的にあまたのウイルスが放出されるんだよね。
おそらく、中でウイルスがどんどん増殖している状態の細胞は、非感染細胞とは膜表面の状態が違うので、ウイルスのターゲットになるタンパク質にウイルスがアクセスしづらくなるのでは、ということ。
進化論的に、そうやって他のウイルスの感染を阻止できるウイルスが残った、というより、ウイルスが増えるメカニズムが結果としてそういう状況を生み出している、というのが正解のような気がするね。

そうすると、コロナとは別の、気道感染するようなウイルスにあらかじめ罹患すればコロナを防げるのか?、という発想になるよね。
さすがにインフルエンザはつらいけど、普通にみんながかかるウイルス性の風邪、アデノウイルスによる風邪くらいだったらいいんじゃない、とも思えてくるわけ。
でも、細菌類が抗菌物質を出すような仕組みではなく、あくまでも次に来たウイルスには感染しにくくなっているのではないか、程度なので、最悪の場合、ダブルで感染することもあるかもしれないんだよね。
かつ、普通のウイルス性の風邪なんかは数日程度で治ってしまうから、ずっとひいているわけにもいかないのだ。
なので、普通に感染対策をしっかりやった方が確実だよね。

2021/01/09

今年は恵方巻きを1日お早めに

 今年は、節分が2月3日でなく、2月2日になるのだ。
これは、立春が2月3日にずれるため。
ながらく立春は2月3日と思っていたけど、実際には前後1日ずつ変動する可能性があるんだよね。
で、ちょうどその変動の年に当たったわけだ。
明治30年(1897年)以来124年ぶりだって!

もともと節分は、立春・立夏・立秋・立冬の四立の前日のこと。
江戸時代くらいから主に立春の前の日を指すようになって、今に至るのだ。
もともと節分の豆まきの源流とも言える「追儺」は大晦日に行われる宮中行事だけど、旧暦の大晦日というと今の節分に時期的に近いこと、立春の当たりは季節の変わり目で疫病払いにちょうどいいことなどから、今の時期に変わったようなのだ。

で、この立春とうのは二十四節気の一つで、太陰暦だと日付と季節がどんどんずれていくので、それを解消するために古代中国で導入されたもの。
暦の方は月の満ち欠けで進行していくんだけど、二十四節気は態様の見かけ上の軌道である黄道上のどの位置にいるかで決められるので、太陽と地球の位置関係で生まれる式を表すのにちょうどよかったんだ。
4つの季節をさらに6つに分割して二十四節気。
有名なのは、春分・秋分、夏至・冬至、啓蟄、霜降とかだよね。
今でも天気予報でよく聞くのだ。

むかしは、平気法といって、1太陽年を単純に24等分して日付を定めていたんだけど、実際の地球の公転軌道は真円ではなく楕円なので、季節と日付に微妙なずれが出てくるのだ。
地球mの好転はケプラーの第二法則で言われるように、面積速度が一定(角運動量保存)なので、太陽との距離が短いところでは早く、長いところではゆっくりと動くのだ。
例えば、春分や秋分は昼と夜の長さが同じ日なわけだけど、平気法で定めると最大で2日ずれるんだって。
そこで出てきたのが定気法で、実際の太陽の黄道上の位置を観測して日付を決めるのだ。
今でも国立天文台が精密観測をしていて、毎年「暦要項」の中で日付を決めているのだ。
祝日法の中でも春分や秋分は具体的な日付が決まっていなくて、暦要項に基づいて日付が決まる特殊な祝日になっているよ。

で、実際の太陽と地球の位置関係で決めるわけだけど、それぞれの日付は、それぞれの対応の角度(360度を24等分するので15度ずつずれて設定)に到達する日付として二十四節気が決まるのだ。
春分点が0度に設定され、秋分点が180度だよ。
なので、正確には、春分も秋分もその日の昼の長さと夜の長さが完全に等しいわけではないのだ!
1年の中でもっとも差が少ない、くらいが正確な言い方だね。
ところが、ここで問題になるのが、地球の公転周期が1年(=365日)ではないと言うこと。
正確には、約365.2422日であること。
1年で約1/4日ずつ季節と暦がずれていくのだ・・・。
そこで4年に一度閏年を入れるのだけど、これだと4年で0.0312日(=約45分間)戻しすぎになるわけ。
なので、グレゴリオ暦では、西暦が100の倍数の年には閏年を入れないんだよね。
でもでも、これでもまだずれがあって、100年間で3.12日ずれるのに4日戻すと戻しすぎなので、西暦が400の倍数の年はまた閏年を入れるんだ。
なので、西暦2000年には珍しく2月29日があったのだ。

で、この暦と季節のずれは二十四節気にも影響していて、平年は1/4日、つまり約6時間ずつ後ろ倒しになっていくんだけど、4年に一度閏年になるとそれを戻した結果、約45分間戻しすぎになるのだ。
これで3年間遅れ続けて4年目に戻しすぎて、と変動をしていくんだよね。
さらに、100年に一度閏年のない年があって、そのときはもどさないで一気に遅れるのだ。
それで日付をまたいでしまうと、基準日から後ろに倒れた日になるわけ。
でもでも、400年に一度閏年が入るとそのまま前に倒れていくので、このとき日付を超えると、基準日から前倒しの日になるのだ。
今回のケースがそれ。
ちょうど400年に一度閏年の葉苛な合羅2000年のときからさらに45分間ずつの前倒しが続いて、日付をまたいだ格好なのだ。
このあたりの説明は、国立天文台のページにわかりやすく変動グラフとして説明されているよ。

実際には、太陽と地球だけでなく、近傍の惑星(金星や木星)の影響もあったりでさらに分単位のずれがあるから、単純に計算するのではなく、きちんと太陽の位置を観測して日付を決める必要があるそうだよ。
今は国立天文台がやっているけど、そのむかしは朝廷の陰陽委寮や幕府の天文方が観測して遍歴していたんだよね。
観測の精度は変わっているけど、やっていることは同じ。
暦と季節の巡航のずれを解消するために計算して日付を決めているのだ!

2021/01/02

時間が経っても柔らか

お正月と言えば、なんと言ってもお餅だよね。
ボクが子どもの頃は町内会で餅つき大会とかもあって、つきたてのお餅を食べられたっけ。
そのままきなこや納豆、ダイコンおろしなどをつけて食べるんだけど、あんこ玉を中心に入れて作ってくれたあんころ餅をおみやげでもらえるのがうれしかったのだ。
つきたてのお餅はやわらかで、それだけでもおいしんだよね。
でもでも、早く食べないとすぐにかたくなってしまうのだ!
切り餅なら焼いたり煮たりすればいいんだけど、あんころ餅だとそうもいかないんだよね・・・。
ちょっとつぶしてストーブの上で焼いたりするとおいしいんだけど。

そこで気になるのは、なぜちまたで売られている大福はみなやわらかいのか?
お餅だとどんどんかたくなるはずだよね。
実際に、鏡餅なんかはかっちかちになるので木槌でたたいて「鏡割り」するわけだし。
実は、大福として売られている多くのものは、餅であんをつつんだものではないのだ!
そう、実は求肥で包んでいるんだよ!

お餅は、蒸した餅米をつくことでねばりを出しているんだよね。
このとき、お餅の中のデンプンは糊化されている状態で、デンプンの結晶構造が熱で崩れ、間に水分子が入り込んでゲル化している状態。
この状態だと、やわらかく、ねばりがあるのだ。
でも、時間が経つとデンプンが再結晶化してデンプン分子だけで固まるようになって、「老化」するのだ。
これがかたくなったお餅、冷えてかたくなったごはんの状態。
再び熱を加えて温めてあげると再糊化してやわらかくなるので、お餅の場合は焼いたり煮たり、ごはんの場合は温め直したりするわけ。
さらに放っておくと、乾燥して水分が飛んでいくので、さらにお餅はかたくなるのだ!
これが鏡割り直前の鏡餅や、おせんべいにする生地の状態。
こうなるともう水分がないので、焼くのではあまり柔らかくならないのだ(>_<)
水分が抜けているので、揚げるとおかきになっておいしいんだけどね。

コンビニなんかで売っている大福も、ずうっと放っておくと少しかたくなるけど、お餅に比べるとそれが段違いで遅いのだ。
それは、求肥はお餅とは作り方が違うから。
求肥の場合、餅米をいったん粉にした白玉粉や餅粉に砂糖や水飴を加えて練り上げたもの。
重要なのは、多くの糖分が入っているということなのだ。
この糖分が重要で、糖がデンプンの保水力を上げてくれるので、デンプンが再結晶化して固まりづらくなっているのだ!
このため、お餅に比べて時間が経ってもやわらかいままなんだ。
できたてをすぐ食べられればお餅でよいのだけど、大福はそこそこ時間が経ってから食べることが多いので、柔らかさが持続する求肥を使うというわけ。
あんみつとか冷たい甘味に使われるのも求肥だよね。

一方、その柔らかさは熱には弱いのだ。
少し熱をかけるとお餅以上にとろけてしまうんだ。
ためしに、コンビニで売っている大福をオーブントースターで温めてみると・・・。
少し温めるだけででろ~んと液状になるよ。
なので、あたたかいものには不向き。
つまり、ぜんざいや汁粉には求肥は入れないのだ!
その場合は、水だけで練り上げる白玉を使うわけ。
白玉もあんみつに入るけど、求肥がもっちりしているのに対し、もっと食感がかたいよね。
同じ白玉粉が減量でも食感に違いがあるのは、デンプンの結晶構造の熱に対する応答性の違いなのだ。
ぷっつりとしたかみ応えある食感が好きな人は白玉、ねっとりとした柔らかい食感がほしい人は求肥がいいんだよ。

今後は餅菓子を食べるとき、餅を食べているのか、求肥を食べているのかを気にしてみるとおもしろいかも。
それぞれ時間が経って冷えてからの食感が違うのだ。
なかなか洗練されたもので、適材適所に使われていることがわかるよ。
さらにはうるち米を使った上新粉からできている団子だとさらにまた食感が違うんだよね。
その辺もさらに比べてみると面白いのだ。