2016/05/28

すって粘ればとろろ

5月だというのに夏日どころか真夏日まで!
これは暑い、というより、熱い。
こうなってくると、もう夏らしいものが食べたくなるわけで。
で、さっそく、とろろそばを食べたのだ。
そこでふと気になったんだけど、とろろに使うイモって何イモ?

スーパーや八百屋さんで見かけるのは、円筒状のイモか、しゃもじ型のイモだよね。
前者は一般的にはナガイモ、後者はヤマトイモとして売られているのだ。
でも、どちらも「ヤマイモ」と呼んでいるような・・・。
さらに、とろろと言えば、自然薯(ジネンジョ)もあるよね。
これも「ヤマイモ」?
そこで、少し調べてみたのだ。

まず、日本で古来から食べられてきた、日本原産のものは自然薯。
種名は「ヤマノイモ」というのだ。
芥川龍之介さんの「芋粥」に出てくるイモだよ。
基本的には野生種で、山に入って取ってくるんだけど、イモが十分に成長している頃にはすでに地上部分の蔓は枯れているので、なかなか見極めがむずかしいみたい。
しかも、地中の石などの障害物を避けて曲がりくねって伸びるので、折らずに取り出すのは難しいのだ(>o<)
なので、今でもむかしでも、高級な食材なんだよね。
鎌倉の自然薯なんて言ったらめちゃくちゃ高いよ。
最近は人工で栽培もできるようだけど。

一方、店頭でよく見かけるのは「ヤマイモ」。
「ノ」が入らないわけ。
これは中国原産のものが中世以降に日本に伝わったものと言われているのだ。
「ヤマノイモ」が英語で「Japanese Yam」なのに対し、「ヤマイモ」は「Chinese Yam」なので、むしろこっちの方がわかりやすいね(笑)
こちらは人工的に栽培がしやすいので、よく流通しているし、よく口にしているはずなのだ。

この「ヤマイモ」にも大きく3種類あって、円筒状のものが「ナガイモ」、しゃもじ型になっているのが「イチョウイモ」、ジャガイモのような丸い形のものが「ツクネイモ」なのだ。
「イチョウイモ」は関東では「ヤマトイモ」とも呼ばれるんだけど、関西で「ヤマトイモ」というと奈良の伝統野菜で「ツクネイモ」の一種の「大和芋」のことなので、さらに紛らわしいのだ・・・。
ちなみに、ナガイモは一番水分が多くて粘りけが少なく、イチョウイモはちょっと粘りけが多め、ツクネイモは粘りけが強い、という特徴があるよ。

どれも生食できるんだけど、一般には、短冊切り・拍子切りにして食べるならナガイモ、すり下ろしてとろろにするならイチョウイモかツクネイモといった感じみたい。
関西ではお好み焼きの生地のつなぎに「ヤマイモ」を入れるけど、これは「イチョウイモ」か「ツクネイモ」みたい。
ノリに挟んで磯辺揚げにするときは、一番水分が少なくて粘りけの強い「ツクネイモ」がよいようなのだ。

ちなみに、ナガイモは煮たりり上げたりして火を通すとふっくらとした食感に変わって、それはそれでなかなかおいしいんだよ。
この性質は「ヤマイモ」でも「ヤマノイモ」でも同じで、熱を通すと粘りけのもとであるムチンが変質するので、ふわっとした感じに変わるのだ。
この性質が利用されていて、薯蕷(じょうよ)饅頭とかかるかん、きんとんなどに使われているのだ。
和菓子の材料としても重要なんだよね。

「ヤマノイモ」はさらに粘りが強くて、独特の風味があるのだ。
アクもあって、「ヤマノイモ」は切断面がすぐに変色するよ。
通常はすり下ろしてからだし汁などでよくのばしてとろろにするんだ。
ナガイモ類だとそのままたれを入れればちょうどよいかたさになるんだけど、「ヤマノイモ」の場合は粘りけを見ながら調節した方がいいのだ。
そうでないと、箸でつまめるくらいの粘りがあるからね・・・。

というわけで、これがわかればなんとなく選べるようになるね。
そう言えば、実家でとろろ汁を作るときは、「ナガイモ」と「イチョウイモ」をブレンドしていたような。
これはこだわりがあったんだなぁ。

2016/05/21

上野で名品を展示する

上野にある国立西洋美術館本館が、世界文化遺産への登録に近づいたのだ!
上野でよくのぼりなんかを見たけど、地元も相当応援していたんだよね。
東京都は、小笠原諸島が自然遺産に指定されているけど、文化遺産はないので、仮に指定されればこれがはじめて。
なので、俄然盛り上がってきたのだ。

もともと、この建物単体での申請ではなくて、近代建築の三大巨匠にも数えられるル・コルビュジエさんの建築のひとつとしての申請なんだ。
世界7カ国に散在する23件の建造物がまとめて申請されているんだけど、こういう申請もはじめてのことだったみたい。
ガウディの作品群みたいに、国内数カ所に散在くらいはあったようなんだけど。
しかも、通常政界遺産への申請は国ごとに「枠」があって、日本で申請するときもまず国内で「予選」があるんだけど、今回はフランス枠での申請だったんだよね。

で、この美術館が建てられたのには、なかなか興味深い経緯があったのだ。
それは、国立西洋美術館の根幹とも言える、「松方コレクション」の変遷が関係しているんだよ。
このル・コルビュジエによる本館は、まさに「松方コレクション」を所蔵・展示するために建造されたものなのだ!
企画展は見に行っても常設展は見ない、なんて人は多いけど、これを機会にぜひぜひ常設展示も見てもらいたいものだよね。
ま、実際に指定されたら、何かそれで企画をしそうだけど・・・。

「松方コレクション」というのは、対象から昭和初期に川崎造船所(川崎重工業の前身)の初代社長を務めた実業家の松方幸次郎さんの美術品コレクションのこと。
この人は、第6代内閣総理大臣の松方正義大勲位の子息なのだ。
第一次世界大戦による船舶需要で業務拡大をしていった松方氏は、欧州で船の売り込みをしている最中に美術品を収集し出すのだ。
収集の経緯や目的は諸説会って明らかじゃないんだけど(本人が著作等を残さなかったため)、ロンドンの画商で興味本位に買ったのが始まりとか。
その後、ロンドンでの買い付けをはじめ、パリなどでも美術品の買い付けをし、西洋近代美術作品や、フランスの宝石商の持っていた一大浮世絵コレクションなどを購入するのだ。
さらに、彫刻家のロダンの代表作もまとめて購入しているんだよね。

こうして、松方氏は美術収集家として一気に名をはせ、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルノワール、モネ、モローなどの作品がコレクションに加えられていくことに。
まさに世界的なコレクションになったんだよね。
けっきょく目録が作られていなかったので正確な総数は不明なんだけど、最終的には、絵画約2,000点、浮世絵約8,000点、そのほか彫刻や工芸品などがあったと考えられているよ。
特に、海外に流出した浮世絵を取り戻した功績が大きいんだよね。
国内では、というか、江戸時代は浮世絵は庶民のもので「芸術作品」とは見なされておらず、ほとんどものが残っていなかったので、こうして海外に流出してものを取り戻さないと現在まで残っていなかったおそれがあるんだよね・・・。

松方氏自身は自分で美術館を作って、と思っていたようなんだけど、運悪く世界恐慌のあおりを受けて川崎造船所の業績が悪化して経営破綻。
夫妻整理のために松方氏も私財を手宇供せざるを得ず、国内で保管していたコレクションは散逸することになってしまったのだ(>o<)
このときに手放された西洋絵画の一部は、今ではブリヂストン美術館や大原美術館に収蔵されているよ。
浮世絵については皇室に献上され、それが帝室博物館に下賜されたので、現在では東京国立博物館が所蔵しているのだ。

一方、海外にあったコレクションはそのまま保管され続け、散逸は逃れたんだけど、やはり不幸に見舞われるのだ・・・。
ロンドンに保管されていたものは火事により焼失。
これは約300点と推定されているよ。
パリに保管されていたものは、ナチス・ドイツのパリ侵攻の際に接収されそうになるも、辛くも逃れたんだけど、日本の敗戦に伴い、仏国政府に押収されてしまうのだ。
基本的には国の資産はそのまま没収、個人資産は原則その個人に返還する、というはずだったんだけど、あまりにも優れた美術品だったがために、返還されずに仏国政府のものとされてしまうのだ。

しかしながら、日本としてもこれだけのすばらしいコレクションを失うわけにはいかないと返還交渉を続け、吉田茂首相が1951年のサンフランシスコ講和会議の際に仏の外務大臣に要求し、やっと返ってくることになったんだよね(なお、この朗報を聞くことなく、1950年にすでに松方氏は鬼籍に入っていたのだ。)。
ただし、仏国政府はすでに自分のものと思っているので、「返還」ではなく「寄贈」と主張し続けていて、仕方なく「寄贈返還」とかいう形態で返ってくることになったのだ。
また、このとき、全部を返したわけでもないのだ(返ってきたのは約430点のうち約370点)。
コレクションの中でも特に重要と思われるゴッホやゴーギャンの作品はそのままフランスに残ることに・・・。
有名なのは、オルセー美術館所蔵の「アルルの寝室」という作品だよ。

しかも、この「寄贈返還」に当たっては、仏国政府はいくつか条件をつけてきたんだよね。
それが、①展示に当たって専用の美術館を設置すること、②美術品の輸送費は日本側で負担すること、③ロダンの「カレーの市民」の鋳造火は本革が負担することの3つ。
で、この①の条件に基づいてできたのが国立西洋美術館というわけ。
でも、美術館設置に当たっても、まだまだ苦難の道が続いていたのだ・・・。

当時の日本は財政難で、とてもじゃないけど新しい美術館を建設するお金がなく、東京国立博物館の表慶館(大正天皇の御成婚を記念して作られた日本発の美術展示館)に展示することでお茶を濁そうとするんだけど、仏国政府は不快感を示し、改めて新美術館の建設を要求してきたのだ。
そこで、実業家で政治家だった藤山愛一郎さんが呼びかけて寄付金集めが始まったのだ。
さらに、補正予算でも建設費の一部が認められ、当時の金額で約1億5千万円という建設費が用意できたのだ。
これが1954年11月のこと。

ここからは展開が早く、建設候補地に上野の現在地が指定され、設計をル・コルビュジエさんに依頼することも年内に決まったのだ。
翌1955年に建設予定地に鍬入れを行い、ル・コルビュジエさん本人も現地を視察。
更に翌年の1956年にはル・コルビュジエさんから基本設計案が届き、1957年にはそれが実施設計案となって、国立西洋美術館本館が竣工するのだ。
1959年に仏国政府からコレクションの引き渡しが行われ、その年の6月に一般公開が始まることに。

で、この「寄贈返還」された「松方コレクション」を軸に、西洋美術史に沿うような展示ができるよう、ルネッサンス期の「オールド・マスター」の購入が進められ、現在の収蔵コレクションができあがったんだ。
国立西洋美術館の敷地内や本館1階にロダンの彫刻作品が多いのは、「松方コレクション」に由来するからなんだよ。
というわけで、こうして日本における西洋美術の殿堂ができあがったわけだけど、数々の苦難を乗り越えた経緯を知ると、今回の世界遺産登録へのICOMOSの勧告というのも感慨深いね。

2016/05/14

経歴詐称なのか?

日銀の審議委員の「経歴詐称問題」が出てきたのだ。
例の「ほらっちょ」さんとは違って、行ってもいない学校名を書いたりしていたわけではないんだよね。
問題は、「博士課程修了」という表現。
今回話題になっている有識者は、博士課程には進学したけど、博士号は持っていない人。
それで経歴に「博士課程修了」と書いていて、これが詐称に当たるのでは?、と騒がれているのだ。

日銀によると、博士号取得者の場合は、「○○博士」と経歴上明記するようにしていて、「博士課程修了」は「単位は取得したけど博士号を取得していない人」に対して使っていると弁明しているのだ。
確かに、そう表現されることもあるんだけど、多くの場合は、「単位取得退学」とか「満期退学」という言い方をして、「修了」という表現は使わないようにするのだ。
理系だと博士課程在学中に博士号を取得できる例が多いのだけど、人文系の場合は、多くの場合「満期退学」して大学教員などの研究職に就いて、定年間際に論文博士で博士号を取得する、という例が多かったんだよね・・・。
なんでそうなっているのかはよくわからないけど。

で、今回も「経済学」らしいので、上記の例に漏れず、なかなか博士号が出ない分野ではあったのだ。
なので、通常は大学院に進学しても、博士号は取得せずに就職するのがおきまりだったはず。
本人としても、別に変なことはしていない、という認識だったはず。
ただ、表現が正確かと言われると、実はまずかったようなんだよね。

学位についてはきちんと法令上の位置づけがあって、ルールの下に運用されているのだ。
まず、学校教育法(昭和23年法律第26号)の第104条第1項で、「大学(第百八条第二項の大学(以下この条において「短期大学」という。)を除く。以下この条において同じ。)は、文部科学大臣の定めるところにより、大学を卒業した者に対し学士の学位を、大学院(専門職大学院を除く。)の課程を修了した者に対し修士又は博士の学位を、専門職大学院の課程を修了した者に対し文部科学大臣の定める学位を授与するものとする。」と定められているのだ。
ここで重要なのは、「授与することができる」ではなくて「授与するものとする」と規定されていること。
すなわち、「博士課程の修了」=「博士の学位授与」ということなのだ。
これを受けて、学位規則(昭和28年文部省令第9号)第4条第1項で「法第百四条第一項の規定による博士の学位の授与は、大学院を置く大学が、当該大学院の博士課程を修了した者に対し行うものとする。 」となっているよ。

では、「博士課程の修了」とは何かと言うと、、大学院設置基準(昭和49年文部省令第28号)の第17条第1項で「博士課程の修了の要件は、大学院に五年(・・・)以上在学し、三十単位以上を修得し、かつ、必要な研究指導を受けた上、当該大学院の行う博士論文の審査及び試験に合格することとする。ただし、・・・」と規定されているのだ。
これによれば、規定数以上の単位の取得+論文審査・試験に合格の両者が必要なんだよね。
つまり、論文審査が通っていない状態で、単位取得のみの場合は、博士課程は修了していないのだ!
なので、「単位取得退学」≠「博士課程修了」ということだよ。

というわけで、ルール上は博士号を取得していない人は博士課程を修了していないことになるのだ。
というか、博士課程を修了すると自動的に博士号が授与されることになるので、博士号を取得せずして博士課程は修了できないというわけ。
ただし、上にも書いたように、俗に「「大学院博士課程の単位取得」を「博士課程修了」と表現し、「博士号取得」と「博士課程修了」を区別する表現が行われていたために起きた混乱なのだ。
なんか「退学」というネガティブな響きがあるから、「満期退学」とか「単位取得退学」とはしたくなかったんだろうけど、ギリギリを正確性を追求すると「博士課程修了】と書くのはウソになってしまうんだよね・・・。
「でき婚」を「さずかり婚」と言うみたいに「満期退学」をもう少しポジティブな表現に言い換えられれば、こういう混乱はなくなるかもしれないね。

2016/05/07

めぐる庭

連休期間中、浅草の浅草寺の本坊である伝法院の庭園が特別公開されていたので、見てきたんだよね。
国指定の特別名勝で、作庭の名手と言われる小堀遠州さんの作と伝えられているお庭だよ。
いわゆる「池泉回遊式庭園」で大名庭園のようなものなのだ。
天気もよかったし、春の緑も鮮やかで、目の保養になったよ。

この「回遊式」というのは、「庭の中を歩いて散策する」という意味。
多くの場合は中央に池を配し、その周りに園路をめぐらして、築山、橋、名石などで景観を整えたもの。
中央に池があるものと特に「池泉回遊式」というのだけど、現在残っている多くの回遊式庭園は池泉回遊式庭園だよ。
東京でいつでも見られる回遊式庭園と言えば、駒込の六義園、小石川の後楽園、深川の清澄庭園などなど。
徳川将軍家から天皇家に所有が移って、後に一般に開放された浜離宮や芝離宮もそうだよ。
ちなみに、両国の旧安田庭園、早稲田の甘泉園、江戸川橋の新江戸川公園、五反田の池田山公園なんかは無料で見られるのだ。
東大の本郷キャンパス内にある三四郎池は夏目漱石さんの小説から名前がとられているけど、もともとは加賀藩邸の回遊式庭園の心字池という池だったのだ。

これらの庭園は今でも池の周りを回るように散策できるように整備されているんだけど、実はコレは江戸時代に日本庭園の様式が集大成された結果のようなのだ!
屋敷のそばに庭を造ること自体はむかしからなされていて、平安時代には寝殿造りの邸宅のまわりに大きな池を持つ庭園を造ったりしていたようなのだ。
平安時代の書物にも、庭の池に船を浮かべて遊ぶ、なんて描写が残っているから、大貴族の邸宅にはそうした自然をもした庭園があったようなのだ。
さすがにその頃の庭園はありありとは残っていないので、遺構を調べるしかないのだけど。

少し時代が下って、浄土教が大陸から伝わってくると、この庭に浄土趣味が加わるんだよね。
つまり、庭の中に極楽浄土の風景を再現しようとするのだ。
有名なのは、宇治の平等院鳳凰堂や平泉の毛越寺。
お経などに出てくる極楽浄土の風景を再現するものなので、自然景観をデフォルメして邸宅内に持ってくるというそれまでの発想とは異なるものだったようなのだ。
おそらく、当時は金や朱できらびやかに飾り、蓮の花などを咲かせていたと思われるんだよね。

これが武家の社会に入ってくると様子が打って変わるのだ。
武家社会の書院造りの場合、窓から見える切り取られた景色が重要になるんだよね。
季節の移り変わりとともに変わっていく絵のように扱うのだ。
なので、必然的に庭はコンパクトになっていくんだけど、木や石の配置、光源方向など精緻な計算がなされるようなるんだ。
さらに、禅宗が入ってくると、水を使わずに水の流れを表現しようとする「枯山水」も出てくるのだ。
竜安寺なんかが有名だけど、京都の禅寺のお庭には石と砂だけで表現された庭があるよね。
これらの庭はあくまでも建物の中から眺めるものとしてできあがっているものなのだ。

これが江戸時代になって、天下太平の時代に大名たちが庭を造り始めると、様子ががらっと変わるのだ。
それが、「歩いて楽しむ庭」の登場。
広大な敷地がないとできないわけだけど、じつは、江戸市中で大名に割り当てられていた屋敷地はどれもかなりの広さだったし、もともと地元の居城には広大な敷地があるしで、場所には困らなかったのだ。

江戸時代にはお城の新築は基本的にダメで、改修も幕府の許可がいるような状態なので、お城の立派さで自分の権力を誇示することはできないんだよ。
すると、書や画、陶磁器などの持ち物や、庭園などでアピールすることになるんだよね。
持ち物の場合、わかる人が見ないと価値が変わらないことがあるのに対し、庭は誰が見てもすごさは直感でわかるので、ちょうどよいものだったんだろうと思うんだよね。
で、競い合うと技術も高まっていくわけで、江戸時代は各大名がこぞって庭に凝って、すばらしい庭園がたくさんできたのだ。

明治に入ると大名はその財力を維持できなくなるので、庭園の中には廃れていくものも出てくるんだけど、いいものはいいので、明治の元勲や財閥に買い取られ、賓客をもてなしたりする用に使われることになるんだよね。
例えば、三菱財閥の岩崎家は庭園が好きで、国分寺の殿ヶ谷戸庭園や清澄庭園などは岩崎家の別邸として使われていたのだ。
明治の元勲では、山縣有朋さんが特に庭好きで有名で、江戸川橋の椿山荘は明治になって作られた庭園なのだ!
西ヶ原の旧古河庭園は陸奥宗光さんの邸宅跡なんだけど、ジョサイア・コンドルさん背系の洋館と、洋風庭園・日本庭園が一度に楽しめるスポットなのだ。
というわけで、明治くらいまでは伝統が引き継がれ、新宿御苑を作り上げるくらいまで続くのだ。

でも、さすがに戦後になるとこういう庭趣味の人が少なくなったようで、個人で回遊式庭園を大々的に造るというのはなくなってきているよね・・・。
今でもお大尽のイメージで、庭に池があって錦鯉を飼っている、というのはあるけど、歩いて回れるほどの庭を持つというのはなかなか想像しづらいのだ。
でも、海外にも注目されているすばらしいものなので、ぜひぜひ残していきたいものだよね。