2022/09/24

国のマナー

 英国のエリザベス女王の国葬には各国から多くのVIPが参加していたよね。
日本でも安部元総理の国葬があるけど、比べられちゃうだろうなぁ。
在位70年の国家元首と、戦後最長とは言え国家元首ではなくて行政府の長の首相だから、差があって当然なんだけど。
ま、そこはそれとして、この英国の国葬であることが話題になったのだ。
それは、我が国を代表して参列された天皇・皇后両陛下の席の移置。

これまで、日本の天皇は「王(king)」ではなく「皇帝(emperor)」の扱いなので、国際儀礼(プロトコール)上は最上位の扱いを受ける、なんて節がネットにはびこっていたのだ。
しかしながら、実際に中継された国葬の様子を見てみると・・・。
二列目にいらっしゃる。
おとなりはマレーシア王だとか。
最前列の真ん中は英国王家だとして、なぜ二列目なのか?

どうも、「最上位に移置している」ということに誤解があったようなのだ。
プロトコールというのは、国と国がつきあっていく上で互いに失礼がないように、ということでなんとなく合意されている慣習のこと。
明文化されたルールがあるわけじゃないみたいだけど、もめないように序列とかが決まっているものなのだ。
ここでのポイントは、一国一国はすべて平等に扱う、ということ。
大国だから優位、小国だから劣位、ということにはしないのだ。

なので、岸田総理も参加した国連総会の場では、議長国をのぞいてアルファベット順に並んでいるんだよ。
国連本部はニューヨークなので英語のアルファベット順。
ところが、パリに本部のあるユネスコ(国連教育科学文化機関)の場合、仏語のアルファベット順に並ぶようなのだ。
オリンピックの開会式の入場が開催国の言語順で出てくるようなものだね。

日本は、英語で「Japan」、仏語で「Japon」なのでさほど位置は変わらないし、御近所もジャマイカとかジョルダンとか似たようなひとたちなのだ。
ところが、米国や英国はそうはいかないんだよね。
米国は英語だと「United States of America」だけど、仏語では「États-unis d'Amérique」になるので、UとEで大きく順番が変わるのだ!
英国も同じで、英語だと「United Kingdom of~」だけど、仏語だと「Royaume-uni de~」なので、米国ほどじゃないけど、Rでけっこう前に出るのだ。
韓国は、英語だと「Korea」でKだけど、仏語だと「Corée」でCになったりするんだよね。

各国代表という同じ立場だとこうやって「あいうえお順」とかでいいんだけど、各国の代表のランクがずれていると、そのランクのずれも考慮する必要があるんだよね。
で、実際に行われているのは、いくつかの階層分けで、具体的には、国家元首(王、大統領ほか)、王族、首相、閣僚みたいな分け方。
冒頭の節だと、さらに「国の格」みたいなのがあって、単一王朝が長く続いている日本やローマ時代から続いているバチカンは格上、みたいな話なんだけど、実は、大国と小国を区別しないように、これも考慮されないんだって。
じゃあ、どうやって同一ランク内で序列を決めるのか、だけど、これも単純なルールで、在位の長さ順だって。
昭和天皇の時代はそれこそ在位数十年で長かったのでほぼ単独トップ。
先帝、上皇陛下も平成は30年以上続いているからやっぱり在位期間は長かったんだよね。
でも、今上陛下についていえば、まだ数年なので、在位期間で見ると短い方なのだ・・・。
昭和天皇崩御の後はまさに英国女王が最長でトップに君臨していたわけだね。
米国や仏国の大統領はどうしても人気があるからそこまでイ一にはつけないのだ(笑)

その下の王族は少し複雑で、王位・皇位継承順位が重要なんだって。
立太子していれば格上、第二王子・王女以降で王位・皇位継承順位が2位以下だと格下になるのだ。
もちろん、日本の女性皇族のように王位・皇位継承に関係ない人たちもいるので、その場合はさらにその下、という扱いだね。

首相やその他閣僚は在任期間の長さ。
同じような考え方なんだけど、駐箚大使(特命全権大使として任国に常駐している大使)の場合は先任主義で、信任状捧呈の順だって。
国の大小ではなく、先に来ている大使の方が序列は上なのだ。
ま、国によって大使といて赴任する人は様々で、閣僚経験者だったり、若い外交官だったり、日本のようにシニアな官僚だったりして、そのバックグラウンドまで追っていられないということだね。

なんかまさしくお作法の世界なので、こういうのこそ「マナー講師」が必要だね(笑)
きっとこういうのは先輩から教わって、自分で体験して学んでいくんだろうけど。
国の威信もあるから、ミスできなくて大変そうだよね。
日本で行われる国葬も、警備ももちろん大事だけど、こういう展でも失礼がないようにしないといけないのだ。

2022/09/17

月が出た出た

 先週は中秋の名月だったのだ。
夕方に雲が出てきて心配したけど、夜には晴れ間が出て、まんまるの月がきれいに見えたよ。
満月だと、ちょうど日の入り頃に出て来るので特にきれいに見えるんだよね。
与謝蕪村の俳句「菜の花や月は東に日は西に」はまさにこのタイミングを詠んでいるんだよね。
これとは全く逆に、月が沈もうとしている頃に日が昇るのを詠んだのが、柿ノ本人麻呂の和歌「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えて振りさけ見れば月かたぶきぬ」で、東の方が白み始めた頃に反対側の西の方ではまさに月が沈んでいくよ、という情景だよね。
日が昇ってからもまだ少し月がうっすら見えているのが「有明の月」。
百人一首(坂上是則)で「あさぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里にふれる白雪」と歌われるよね。

このように、月は入りと出の時間が日を追うごとにずれていくんだよね。
月の満ち欠けの周期はまさに「ひと月」で約29.5日なので、毎日12.2度ずつずれていくのだ。
時間にすると48.8分で、月の出や南中の時間で言うと、毎日約50分ずつ遅れることになるよ。
新月は太陽と地球の間に月がある状態だけど、この場合は日の出とほぼ同時に月の出になり、日の入りとほぼ同時に月の入りになるのだ。
逆に、満月は地球から見て太陽と月が180度ずれて逆側にいるので、日の出とほぼ同時に月の入りになり、日の入りとほぼ同時に月の出となるのだ。
なので、中秋の名月の次期だと18時前に日の入りになるので、月の南中時刻は真夜中頃。
夜を通して月が見えやすい状態だよね。

むかしの日本人は風流で、月見は連夜楽しんで、徐々に遅れて出てくる月のそれぞれに名前をつけたのだ。
名前がついているのは、満月の1日前(月齢14)の待宵(まつよい)の月。
これは翌日の満月が待ち遠しくて、焦がれてしまう、というところから来た名前みたい。
満月の翌日、月齢15のときが十六夜(いざよい)。
これは、「ためらう」とか「進めない」という意味の「いざよふ」から来ていて、前夜から比べると月が出てくるのが1時間弱遅れるので、早く出てこないかなぁ、待ち遠しいなぁ、という思いだよね。
さらにその翌日は立待月。
これは1時間半強の遅れなのでまだ立って待っていられる、という感じ。
でも、さらに翌日になると居待月。
この日には2時間半遅れになるので、座って待っている、ということなのだ(「居る」は「居酒屋」の「居」で座るの意味。)。
そしてその次の日には臥待月(ふしまちづき)。
もう寝て待っているのだ(笑)
さおして、その次が最後で更待月(ふけまちづき)。
もう3時間半強遅れなので、夜も更けるまで待っていないと見られない、ということだよ。
このとき、月齢は19で、翌日になると月齢20=下弦の月になるので、月は半月から少し膨らんでいるくらいだね。

ちなみに、この時期の月を「中秋の名月」として愛でるのは中国の風習が伝わったものだけど、天文学的にも、この時期は北半球では太陽と月の角度の関係から観月に適しているんだって。
でも、実は関東以西では、この時期は夜の晴天率が低く、月が見えないことも多いのだとか・・・。
でも、逆に言えば、見えたり見えなかったりするからはらはらしてより焦がれるのかもね。
こういうのは手に入れてからよりも追いかけているときの方が楽しいのだ(笑)
で、雲に隠れて月が見えなかったときは「無月」、雨で月が見えないときは「雨月」と名前もついているから、見えないなら見えないで、見えなくて悲しいなぁ、と楽しんでいたのではないかと思うよ。

電灯が普及する前はとにかく夜は暗くて、今よりもっと月はきれいに見えたし、月の明るさを感じられたはずなのだ。
娯楽も多くないし、きっと目もよかっただろうから、月を愛でることを楽しんだんだろうねぇ。
しかも、月が出てくる時間は徐々に遅れるし、そのたびに満ち欠けがあるしで、ただ星を見るよりは飽きなかったのかもね。

2022/09/10

やわらか~

昭和の懐かしい給食、という話題でよく出てくるのがソフト麺。
もともと学校給食用に開発された麺類なんだそうだけど、懐かしんで中年層が食べたがるので、スーパーやネット通販で買えるようになっているんだって。
ボクは正直なところおいしかった記憶はないけどなぁ。
懐かしくはあるけど。
で、最近Yahooの特集記事で再びこの名前を目にして、気になったので少し調べてみたのだ。

「ソフト麺」の正式名称は「ソフトスパゲッティ式めん」というそうで、これは景品表示法に基づいて事業者団体が作る公正競争規約である「生めん類の表示に関する公正競争規約」では、「小麦粉に水を加えて練り合わせ、製めんし表面糊化した後加工したもの」と定義されているんだ。
これだとわかりづらいんだけど、簡単に言うと、製麺した後にゆでてから、さらに加工したもの、ということ。
Wikipediaの説明では、蒸した後にゆでる、とあるけど、実際は逆で、ゆでてから袋詰めして「蒸熱殺菌」されたもの。
これはさっきのYahoの特集記事で実際に製麺業者の人がそうしているからそうなのだ(笑)

「表面糊化」というのは、麺の表面付近のデンプンが糊化(アルファ化)すること。
糊化は、デンプンが熱によりまわりの水を巻き込んでゲル状になった状態。
お米を炊くともっちりとやわらかくなるのがまさにそうなのだ。
麺類をゆでると、麺の表面から水分が浸透していくんだけど、パスタではアルデンテなんて言ってshinnが残るくらいでゆであげる、なんてことがあるように、表面から中心に向かって徐々に水分が浸透していくのだ。
なので、表面付近は水分が多く、麺の中心付近は水分が比較的少ない状態なんだ。
これが麺独特のぷつっという適度な歯ごたえを与えているんだよね。
全体に均一に水分が分散しているおもちとは食感が違うのはこのため。

これはゆでることで麺の表面から徐々に水分が浸透していくからなんだけど、蒸した場合はこうはいかないのだ。
蒸して作る麺ってあんまりないので直接比較はできないけど、比較的近いのは小麦デンプンの皮を使った点心類。
蒸し餃子の皮なんかを想像してもらうとよいのだけど、ゆでた麺とはまた違う食感だよね。
これは、ゆでる場合に比べてさらにゆっくりとして水分が浸透していかないので、じっくりと水がしみていく結果、かなり均一に水分が浸透してしまうのだ。
なので、全体としてもっちりするけど、ぷつっという麺類にあるような歯ごたえはないわけ。
なので、蒸し上げた場合は、表面糊化にはならないのだ。
ま、ゆでてから蒸しても、蒸してからゆでても、最終的にできあがるものは同じような気がしなくもないけど。

ソフト麺の場合は、熱湯でゆで水でしめ、パックするのだ。
このパックしたものを高圧蒸気で殺菌することで、日持ちよくするとともに、芯までしっかり水分が浸透し、ぷつっという麺類独特の歯ごたえがなくなり、全体にもっちりした感じの食感の麺になるよ。
蒸す前だとほぼ細いうどんなんだそうだけど、蒸した後にだいぶ様変わりするのだ。
でも、実は、芯までしっかり水分が浸透した状態というのは、麺類が伸びた状態でもあるんだよね。
麺類が伸びるという場合、芯まで水分が浸透して歯ごたえがなくなるとともに、糊化したデンプンが老化して弾力性が失われ、かたくなったことを指すのだ。
通常は冷め切ってかたくなる状態までいくことはそんななくて、まわりのつゆや汁の水分をさらに吸い込んで芯までしっかり水分が浸透してだらっとした状態になると「のびた」って言うよね。
その意味では、ソフト麺ではできあがり時点ですでにのびているのだ。
でも、もともとそういうものなので、それ以上は変化していかないわけ。
つまり、これ以上は「のびない」ので、給食のように食材が配送されてから食べるまでにけっこう時間がかかる場合でも問題ないのだ。
この最初から伸びているような食感が「ソフト」なわけだけど、この食感をあまり好きになれない人もいるわけだよね。

ソフト麺がうどんと違うのはこれだけではないのだ。
なんと、原料の小麦粉が違うんだよね。
最初に塩と水と一緒に小麦粉を練って生地を作る工程はうどんと全く同じなんだけど、使う小麦粉の種類が異なるのだ。
通常うどんに使われるのは中力粉。
でも、ソフト麺に使うのは強力粉。
パンに使う小麦粉だよね。
これには理由があって、もともとはパン用に支給されていた学校配給粉という強力粉にビタミンBが配合された小麦粉を使っていたから。

高度成長期くらいのこと、まだまだ日本全体の栄養状態はよくなかったので、学校給食用のパンに使う小麦粉が配給されていたんだって。
でも、毎回パンだけだとメニューの幅が狭くなる。
当時はまだパン食もそこまで一般的ではないからね。
そこで、パン用に配給されている小麦粉で麺類を作ってみてはどうか、と考案されたのがソフト麺のはじまりのようなのだ。
現在は配給粉はないようなので、独自に強力粉を原料に作っているみたい。
まさに学校給食という枠組みの中で考案され、工夫されてきた麺なのだ。

2022/09/03

マナー講師の批判はマナー違反

 なんか最近はテレビとか変なマナーを目にすることが多くなったような気がするのだ。
最初に火をつけたのが、とっくりの注ぎ口からお酒を注ぐのはマナー違反、とかいう件。
注ぎやすいようにとがらせているのに、そこを使わない意味とは?
これを皮切りに、そういえばマナーと言われているものの中にも変なものが混じってないか、と注目を集めたのだ。
稟議書の押印の時に上司の方に向かって少し傾けて押してお辞儀しているようにするとか。
オンライン会議では右上が上座(?)とか。

そのむかしも、瓶ビールを注ぐときはラベルを上にして、とかそういうのがあったけどね。
こういうマナーって、「これが礼儀正しいやり方」という共通理解の上に成り立つものなんだよね。
テーブルマナーも層だし、上座・下座とかもそうだし。
逆に言うと、誰かが言い出しただけで、共通理解には至っていないのに、マナー講師と名乗る人たちが「これが正しい」と押しつけてくるから反発を受けるのだ。
しかも、とっくりの話のように荒唐無稽、本末転倒みたいなものもまざっているし。
変なマナーもどきを広めようとするのがマナー違反だよね。

とはいえ、儀礼的に「お作法」というものはむかしからきちんとあるのだ。
マナー講師がはびこる前は、「小笠原式礼法」というのをしっかり習って花嫁修業、みたいのもあったんだよね。
茶道ではお茶会にお呼ばれしたときのお作法があるし、柔道や剣道などの武道でも、礼に始まり礼に終わるみたいなお作法はあるよね。
そういうのに始まって、現代的なものとして、客先との電話は相手が切るまで待つ、就職面接では進められるまで座らない、とかそういう新たな局面に対応するお作法が出てくるわけ。

江戸時代の庶民にそういうのがあったかどうかはよくわからないけど、お祭りの時の祭礼行事には当然伝統的なお作法があったし、冠婚葬祭もどこまでかちっとしているかは別としても、失礼のないように、というお作法はあったのだ。
これが武家になると、「面子」の世界になってくるので、けっこう大変だったみたい。
御査証を指南してくれる人にきちんと付け届けをして教わらないと行けないのだ。
石高が低い旗本やお公家さんでも、そういう副収入で潤っていた人たちがいるみたい。
こういうので有名なのが「高家(こうけ)」と呼ばれる役職。

もともと一般名詞の「高家」は格式の高い家柄という意味なんだけど、江戸時代に役職名にもなったんだよね。
何をするのかというと、まさしくお作法を指南・伝授するのだ。
老中直轄の役職で、朝廷とのコミュニケーションをとる上での作法を教えるのだ。
忠臣蔵のもととなった赤穂事件で浅野内匠頭が吉良上野介に松の廊下で刃傷沙汰を起こしたのも、朝廷からの使者の供応に当たって浅野が吉良の指南を受けることになっていたんだけど、そのときの遺恨が原因。
こういうのは教えてもらわないと用意すべきものなんかもわからないから、意地悪されたら終わりなんだよね。
もちろん、教わる方の態度もあるし、十分なお礼というのも大事なのだ。

この高家職は旗本なんだけど、選ばれているのはかなり家柄のよい武家。
源氏足利流(室町幕府の足利将軍家の流れ。吉良家はこれに当たる。)、室町幕府の管領上杉氏の流れ、織田信長の流れ、武田信玄の流れなど。
徳川将軍家にしてみると、こういういわゆる名家を家臣団に従えているという意味も大きいのだ。
権威付けにつながるというわけ。
江戸幕府が長く安定的な基盤を築けていた要因がこういうところにもあるのだ。

高家は旗本ではありながら、一般に高い官位を与えられたのだ。
というのも、朝廷とのやりとりをする上で、官位が低いとそもそも官位の高い人たち(宮家や有力な公家)と調整ができないため。
通常は従五位下から従四位下くらい。
多くの大名は従五位下で、老中職に就く譜代や大大名がやっと従四位下になるので、旗本としては飛び抜けて高い官位なんだよね。
いわゆる「殿上人」、つまり、天皇のおわす御所の清涼殿への昇殿が許されるのが原則従五位からなので、これくらいの官位がないと仕事にならないのだ。
ま、これは名目上のもので、石高には連動してないんだけどね。

いずれにせよ、この昔のシステムだと、まさしく誰もが認めるような家柄のよい名家が伝統的なお作法について指南をするという形式だったわけだよね。
ビジネスとして勝手に新たなマナーを生み出したりはしないのだ(笑)
俗に元CAが甥とか言われるマナー講師だけど、マナー講師としての有資格であるかどうかも職歴や出自からわからないし、権威付けもないから、どうしても「軽い」のは確かだよね。
それを認識した上で、伝統的なお作法はそれはそれとして教える、現代的な問題に即したマナーは過去の伝統を踏まえた上でこういう考え方でこうやるのがよいのではと提案で留めるとか、そういうことをしないとたたかれるのは仕方がないような気がするなぁ。