2015/11/28

晩秋の芳醇

今年はあたたかいからか、紅葉はいまいちのようだけど、着実に秋から冬に移り変わろうとしているのだ・・・。
寒いのが苦手なので、この季節はもの悲しいんだよね・・・。
で、そんな季節に出てくるのが洋梨。
「梨」とは言いながら、夏の終わりに出てくる和梨とはものが全く違うよね。
生物種としては極めて近縁のようなんだけど。

果物としての梨の原産は中国で、そこから東西に分かれたようなのだ。
東に残ったものは東アジアで食べられている、まるい形のしゃりしゃりした梨。
西に渡ったものは、ひょうたん形のねっとりした梨。
欧州で梨が広まったのは、ローマ帝国が広めたからなんだって!
ということは、梨もシルクロードを経由して欧州にもたらされたのだ。
全く性質の異なる果物になっているけどね。

和梨と洋なしの最大の違いは、その食感。
和梨にはリグニンに富んだ硬い細胞壁を持つ「石細胞」というのが果肉全体に分布していて、これがしゃりしゃりした食感、ざらざらした舌触りのもとになっているのだ。
他の果物だと、中の柔らかい果肉を保護するために皮下にあるものらしいんだけど、和梨の場合は果肉全体に広がっているんだって。
洋梨の場合はこの石細胞は少ないので、そういう食感にはならないのだ。
でも、この食感のせいで、和梨は英語では「sand pear(砂の梨)」なんて言われているんだよ・・・。
あのしゃりしゃり感とみずみずしさがよいのに!

実は、洋梨も収穫した手の時点ではがりがりした食感らしいのだ。
しかも甘くない。
これは、果肉中にデンプンの形で栄養が蓄えられているため。
果肉の2%ほどらしいけど、これが硬い食感を生み出すとともに、その分だけ糖が少なく、甘みもなくなっているのだ。
なので、洋梨は収穫してから「追熟」という過程が必要なんだよね。
バナナやメロン、キウイなんかも同じだけど、成熟ホルモンでもあるエチレンガスの作用により、果肉内のデンプンがブドウ糖や果糖に分解されて甘みがぐんと増すとともに、ビタミン類も増え、さらに、芳香成分も出てくるのだ。
メロンや洋梨が熟してくると芳醇な香りになるのはこのためだよ。
洋梨として日本でもっとも流通しているラフランスはあまり色が変わらないけど、洋梨の多くは熟してくると果皮の色が緑から黄色に変わるのだ。

リンゴなんかだと、最初から糖類が栄養として蓄積されているので、栄養を蓄えきった時点=食べ頃という熟し過多なので。
一方で、こういう追熟が必要な果物は、いったん栄養がデンプンで蓄積され、それがさらに分解されて甘みと方向が出てくるので、栄養を蓄えてからしばらく経過した時点=食べ頃という熟し方なんだよね。
これを「後熟」というらしいけど、一気に熟した果実を提供するのではなく、五月雨式に熟した果実を提供するための戦略だとか、リンゴなどの果実と時期をずらして果実を提供するための戦略だとか考えられているのだ。
確かに、和梨に比べて旬がかなり後方にずれているので、同じ梨の中でもしっかり棲み分けができているよね。

この追熟においては、果肉の肉質も変化するのだ。
熟す前はデンプンの硬い塊があってがりがりするんだけど、これはちょうど硬くなったおもちの小さな粒が果肉の中に広がっているようなもの。
硬くなったデンプンというのは食感が悪いんだよね(笑)
追熟していく過程ではこのデンプンがなくなるので、がりがりの素は排除されるのだ。
さらに、細胞壁としてがっちり固まっていたペクチンが溶け出してくるので、ねっとりとしたとろみを与えるのだ。
ペクチンは果実ジャムのとろみの正体だけど、まさに天然のジャムのようになるわけ。
リジッドな細胞壁が壊れて、果肉中にとろみ成分が広がるので、リンゴなどの果実とはまた違ったねっとり感になるのだ。
柿もペクチンが多いことで知られる果実なんだけど、やっぱり完熟するとねっとりとするよね。

日本に西洋なしが導入されたのは明治期らしいけど、なかなか日本の気候に合わず、山形などの一部の寒冷地にのみ定着したようなのだ。
今でもラフランスの一大産地は山形だよね。
生食の洋梨が出回るようになったのはそれこそ平成に入ってからで、それまではシロップ煮の缶詰などの加工品が多かったのだ。
これはやっぱり流通技術の問題とかあるのかな?
今ではいったん4度に冷やしてから、20度で追熟させるらしいんだけど、そういうのが適切にできるようになって、店頭に並ぶときに食べ頃かその少し手前にちょうどもっていくことができるようになったのが大きいのだろうなぁ。
こうしたボクたち日本人も、甘くてねっとりした洋梨

2015/11/21

つわものどもが夢の跡

すったもんだがあったけど、国立競技場が更地になったのだ。
いやあ、オリンピックが近づいてきたねぇ。
まだ新国立競技場がどうなるかはわからないけど(笑)
それより前に、来年のリオデジャネイロのオリンピック施設がまだ完成していない方が問題かもしれないけど・・・。

実は、ここにオリンピックのメインスタジアムが建設されるのは2回目!
そう、前の東京オリンピックに合わせて前の競技場が建設され、それを補修しながら使っていたのだ。
東日本大震災でもひびが入ったり、老朽化も進んでいたんだけど、それ以上に、メインスタジアムに必要な収容人数が足りないので、建て替えることになったんだよね。
建て替えまでしなくても、なんて意見はあったけど、メインスタジアムだし、やっぱり開催主体は新しく建設したいよね。

さて、一般に国立競技場と呼ばれている施設は、正式には、国立霞ヶ丘陸上競技場というのだ。
神宮にあるので渋谷区と思われがちだけど、住所は新宿区霞ヶ丘。
ちょうど新宿区と渋谷区にまたがっている地域にあるんだよね。
江戸時代、このあたりは譜代大名の青山家の下屋敷があったところで、内藤家と並んで小大名でありながら広大な土地を江戸郊外に持っていたのだ。
内藤家は新宿・代々木・四谷一帯、青山家は青山・渋谷一帯だよ。
地区名の青山も青山家から来ているのだ。

明治維新後、大名の下屋敷は明治政府に接収され、新政府の用地になったのだ。
で、このあたりは陸軍の青山練兵場になったんだよね。
近代式軍隊を作り上げるため、代々木や青山などに広い練兵場が設けられたのだ。
でも、明治天皇が崩御して、この地で大葬儀が行われたのを契機に、ここに明治天皇の業績を残すための巨大な洋式庭園を構築することが決まったのだ。
それが神宮外苑。
代々木の練兵場は後に明治神宮と代々木公園になるんだけど、明治神宮のある「内苑」に対して、場所が離れているので「外苑」なんだ。
ただし、新宿御苑をくっつけてさらに巨大な「神宮の杜」を作ろうという構想もあったのだ。
そうなると、都内の中心地のほとんどが緑地になっていたことになるね!

明治神宮が神社洋式だったので、外苑の方は洋式にしたわけだけど、公園を整備すると同時に、聖徳記念館を建築するとともに、野球場(後の神宮球場)や競技場が整備されたのだ。
この競技場は戦前日本の主要な陸上競技場で、戦中には、学徒出陣の壮行会にも使われたんだって・・・。
終戦後、GHQに一時接収され、返還された後は外苑の管轄下の競技場にもどったんだけど、戦後復興の象徴でもあった東京オリンピック開催に向け、明治神宮から文部省(当時)に譲渡されたのだ。
それでここに建てられたのが、まさに壊された陸上競技場だよ。

実は、戦前にもオリンピック招致をしていて、昭和15年(1940年)に東京大会が開催されるはずだったのだ。
実際には、戦争への突入により辞退するんだけど。
このときのオリンピックでも霞ヶ丘にメインスタジアムを作る構想はあったんだけど、当時は外苑の景観を損ねるとの理由で、世田谷のゴルフ場跡の広大な土地にメインスタジアムを作ることが決まったのだ。
これが駒沢オリンピック公園。
駒沢競技場も戦後の東京オリンピックで会場のひとつとなるけど、戦前の開催案ではこっちがメインだったんだよ。
ちなみに、代々木の練兵場跡もやっぱり候補になっていて、こっちも戦後のオリンピックでは会場に使われているのだ。

戦後に改めてオリンピックを招致する際、やっぱり霞ヶ丘に白羽の矢が立ち、今度は景観に配慮しながら競技お嬢を作ると言うことで妥結したのだ。
おそらく、戦後になって明治神宮の声が相対的に弱まったのもあるんだろうね。
で、そのオリンピック招致を目指して、まずは昭和33年(1958年)にアジア競技大会と国民体育大会を霞ヶ丘で開催することになったんだ。
でも、明治神宮から文部省に譲渡されたのは、開催2年前の昭和31年(1956年)になってから。
起工は昭和32年(1957年)の1月で、竣工は昭和33年(1958年)の3月なので、1年3ヶ月で作ったんだ。
当然建設スケジュールはタイトなので、夜を徹して作業をしたんだよ。
国の威信がかかっていたのだ!

無事にアジア競技大会と東京国体を終えた後、オリンピック招致に向けてさらに動き出すんだけど、このときできた競技場ではオリンピックのメインスタジアムとしては収容人数が足らなかったのだ。
なので、スタンド・観客席を増築し、収容人数を増やす工事をしたんだよね。
おそらく、新国立競技場構想に反対していた人は、またそれでいいんじゃないの?、と思っていたんじゃないかな。
でも、本体自体にだいぶガタがきていたからねぇ・・・。
象徴的なものでもあるし、過度にお金をかける必要はないけど、できれば何か残したいよね。

さて、オリンピックの後は、高校サッカーの聖地としてサッカー競技に使われるとともに、主要な陸上競技の会場としても活用されていたのだ。
さらに、嵐やSMAPをはじめ、コンサート会場にも使われていたんだよね。
実は、このコンサートやイベントの会場としての使用料収入というのが大きいらしくて、没になった新国立競技場当初案では多目的に使えるような設計になっていたんだよね。

2015/11/14

国産ジェット機が翔んだ日

名古屋で、初の国産ジェット旅客機のMRJの飛行試験が成功したのだ。
当日は事故があるかもしれないからと、近隣区域への立入りは制限され、遠くから見るか、ネットの生中継で見ることになったのだ。
生中継することについては、初飛行試験で何かトラブルがあるかもしれないと危険視する向きもあったんだけど、結果としては見事に離陸・飛行・着陸とこなしたんだ!
日本の航空機技術の歴史が書き換えられた瞬間だよ。

日本の航空機技術は戦前からかなり高い水準にあったんだよね。
実際に、零戦や隼、紫電改などのレシプロ戦闘機はその性能の高さを評価されているのだ。
加速性能と小回りがきくので、当時の空中戦では活躍できたんだよね。
でも、終戦後、この技術力を恐れた連合軍GHQは、航空禁止令というのを出して、国内に残っている航空機をすべて破壊するとともに、航空機の開発・製造を禁止したんだ。
これがきっかけで我が国の航空機技術は置いてけぼりを食らうことになるのだ・・・。

実際には、朝鮮戦争の勃発により、日本の旧航空機メーカー(三菱重工や川崎重工、中島飛行機の後身である富士重工など)に修理やメンテナンスの仕事が入り、また、ライセンス生産による部品製造の仕事も入ってきたので、製造技術については一定のレベルを維持することができたのだ。
でも、肝心の開発の方は止められたままなのが痛かった。
第二次大戦では、ちょうどジェット機が実戦投入が始まり、戦後、民間航空に転用されていく時期だったんだよね。
そのタイミングを逃してしまったのだ。
米国では、大型爆撃機の技術から、大型ジェット旅客機が生まれるんだよね。
軍用輸送機の企画競争に負けたボーイング社が、自社の軍用機の技術を民間機に転用したのだ。
そうしてできてくるのが、ボーイング707から始まる大型ジェット旅客機のシリーズ。
民間航空機により大量輸送自体が幕を開けることになるんだよね。

日本では、終戦間際のタイミングでジェットエンジンを搭載した試験機を開発するところまではこぎ着けていたんだけど、それ以降いったん開発が止められてしまったので、ジェットエンジンについて大きく遅れをとることになったのだ。
これがいまだに尾を引いているんだよね・・・。
自衛隊機の戦闘機や輸送機は国内企業が製造しているけど、ライセンス生産で、肝心なエンジンや計器類などは海外製。
しかも、ブラックボックスとなっていて、勝手に解体して中を調べても行けない契約になっているんだ。
定められたマニュアルに則って修理やメンテナンスはしていいんだけど、重要な部品の交換だと、米国に行ったのくって作業してもらうなんてことも。

その一方で、サンフランシスコ講和条約の発効後、日本が完全に独立を取り戻してから、国産航空機開発の機運が高まったのだ。
その流れで開発されたのが、国産レシプロ旅客機のYS-11。
本当は「わいえすいちいち」と読むのが正式だそうだけど、一般には「わいえすじゅういち」と呼ばれている航空機だよ。
開発には、三菱重工や中島飛行機で活躍していた設計士が入り、通商産業省の主導の下、関連企業が集まって国を挙げて取り組まれたのだ。
当時は特定の企業が突出しないようにとの配慮で、日本航空機製造株式会社という特殊法人が設立され、ここが開発・製造・販売主体となったのだ。
ちなみに、最初にこの機体を引き受けるローンチカスタマーは、日本航空(JAL)ではなくて、当時はまだできたばかりだった全日本空輸(ANA)だったのだ。

ただし、日本の中でもぴかぴかの腕を持つ飛行機屋が総力を挙げて開発したんだけど、彼らは軍用機しか作ったことがなかったし、そもそも旅客機に乗ったこともなかったようなんだよね。
なので、できあがったYS-11はお世辞にも乗り心地がいいものとは言えないようなもので、パイロットからすると操縦しづらいものだったとか。
国産技術の復活というノスタルジーの中では美化されているけど、能力的にはそこまでか、という評価もあるみたい。
軍用機ばりに頑丈だったのと、就航後の不断の改良を続けたことでそれなりに売れたんだけど、主体が特殊法人だったというのもあって経営は悪化。
1973年(昭和48年)には製造が終了し、日本航空機製造も三菱重工に事業を引き渡して1982年(昭和57年)に解散することとなるのだ。
その後もしばらく国内外で飛んでいたんだけど、国内では2006年(平成18年)に定期路線から完全引退したんだ。
このときは引退を悲しむ声が大きかったんだよね。

そんな中、やはり国産旅客機を、ということで、経済産業省の協力を得て、三菱重工が開発に取り組んだのがMRJなのだ。
三菱・リージョナル・ジェットの略で、短距離~中距離を飛ぶ中型のジェット旅客機。
ちょうど開発計画が持ち上がった90年代は、カナダのボンバルディアやブラジルのエンブライエルの成功から、これからはリージョナル・ジェットに時代と言われた頃で、それなりの市場が見込めたんだよね。
また、大型ジェット旅客機だと、開発費用も莫大にかかるので、日本ではとてもじゃないけど無理だったのだ。
けっきょく世界でボーイングに対抗しているのは欧州のエアバスだけだしね。

このMRJの開発に当たっては、高い燃費性能と低環境負荷の技術が採用され、そこが国が補助して技術開発をする部分なんだよね。
この開発には宇宙航空研究開発機構(JAXA)と東北大学が協力しているのだ。
それで、いくつかの開発トラブルを乗り越え、何度も試験飛行を延期して、やっと初試験飛行に成功したんだ。
今回もローンチカスタマーはANAなんだけど、民間主体で開発を進めていること、YS-11のときの反省を踏まえて経営戦略を検討したことから、すでに海外からの受注も取り付けているんだ。
国内外でいまかいまかと待ち続けていた飛行試験がやっと成功し、これから型式証明の獲得など就航に向けての準備が進められるのだ。
世界の空を国産ジェット旅客機が飛ぶ日も近い?

2015/11/07

おだやかに独立

出張でカナダに行ってきたのだ。
寒かった!
北米大陸の北側だからね。
場所によっては極域に入っていて、オーロラも見えるわけだし・・・。
そんなカナダだけど、意外とよく知らないんだよね。

英国と独立戦争までして完全に独立し、大統領制を敷いている米国とは異なり、カナダは英連邦の一角。
英国王がカナダ王を兼ねていて、その下で立憲君主制になっているのだ。
英連邦の他の国と同様に、国王の代理として「カナダ総督」が「君臨すれども統治せず」で存在していて、実質的には首相が政治のリーダーとなっているのだ。
このあたりはオーストラリアとかニュージーランドも同じだよね。
でも、こういう政治体制なので、バンクーバー五輪では、国家君主としてエリザベス女王の代理でカナダ総督が開会宣言をしているんだよ。
でも、カナダが独立して完全に主権国家になったのは1982年なんだって!
どうなってるの?、と思うけど、英国式の法手続で、そこに至ってやっと完全に独立したらしいのだ。
カナダという形で国がまとまったのは1867年。
英国議会で制定した「英領北米法」という法律により、北米の英国植民地のうち、カナダ植民地、ニューブランズウィック植民地及びノバスコア植民地を合わせて「カナダ自治領」となったのだ。
このとき、州が4つできて、オンタリオ州、ケベック州、ニューブランズウィック州及びノバスコア州ができたよ。
これはカナダの東側部分。
後に中央部のマニトバ州、北西部のノースウェスト準州、西部のブリティッシュコロンビア州、、太平洋上のバンクーバー等、大西洋上のプリンスエドワード島などがどんどん組み入れられ、今の形になったのだ。
カナダの場合は、あくまでも英国の領土の一部で、一定程度の自治権が認められていた、ということなんだよ。

1931年になると、ウェストミンスター憲章が制定され、英国の海外自治領にも外交権が与えられるようになったのだ。
逆に言うと、それまではなかったということ・・・。
カナダやオーストラリア、ニュージーランドなんかは、英国軍として第一次世界大戦に参加しているんだけど、これは英国が参戦したのでそのまま引きずられて参戦しているのだ(>o<)
このウェストミンスター憲章では、英国王が各自治領の国王を兼ねることとされ、それぞれの国が国王への忠誠をもとに団結する「同君連合」となったのだ。
これにより、英連邦が正式に法的に位置づけられたことになるんだって。
ただし、この時点ですぐにカナダは独立したんだけど、オーストラリアとニュージーランドが独立するのは1947年で、戦後になってからなのだ。

この状態だと、カナダはまだ英国の一部という位置づけで、憲法の改正には英国議会が権限を留保していたりしたのだ。
そこで、1982年になって、1982年憲法法というのが英国議会で制定され、これにより自治領から真の独立国になったんだそうだよ。
っていうか、そんな最近のことだったんだね・・・。
これはびっくり。
さらに、実はケベック州だけはこの1982年憲法を批准していないんだとか・・・。
もともとケベック州はフランス系の住民も多く、カナダから独立しようという動きもあるみたいなので、そういうところから来るのかもしれないけど。
そういうわけで、カナダは日本から見るとけっこうわかりづらい政治体制になっているんだよね。
普通に観光する分にはあまり意識しないし、ほとんど米国と同じと思っていたけど、かなり違うんだよね。
そこは戦争してまで独立したのと、自治領を経てマイルドに独立してきたのとの違いなのかもしれないけど。