2023/10/28

死中に活を見出す

アンパンマンは自分(の顔の一部)を食べさせて弱っていくだけだけど、自然界はもっとしたたか。
果物なんかは甘い果実を動物や鳥に食べさせ、種子を遠くに運んでもらって広がっていく、という戦略をとっているのだ。
なので、種子は簡単に消化できないようにかたい殻に覆われているわけだよね。
人間なんかは種を取って食べてしまったり、種なしの品種を作ったりもするけど、スイカなんかだとついつい飲み込んでいて、排泄物と一緒に出てくることもあるのだ。
動物や鳥なら、自分の行動範囲でそうやって未消化の種子を運んでくれるわけ。

で、実はこれと同じ戦略を昆虫もとっているのではないか、と話題になっているのだ。
それが神戸大による「ナナフシモドキ」の研究
ナナフシ目の昆虫の中でもナナフシモドキはオスが極めてまれで端正生殖をすることで知られているのだけど、この昆虫がその戦略をとっているのではないか、と調べてみたんだそうな。
羽がなく、飛翔能力が欠如しているので、自分で動ける範囲ではそこまで広がってはいかないはずなんだけど、様々な場所で遺伝子解析をした結果、どうも同じ遺伝的バックグラウンドのものが広がっていることがわかったのだ。

で、実際、ヒヨドリのフンの中には未消化のナナフシモドキの卵があって、それは実際に孵化させることが可能なんだとか。
で、ナナフシモドキ自体は枝などに擬態していてむしろ鳥に食べられにようにしているのだけど、仮に鳥に食べられても、メスの場合はおなかのなかにすでに固くなっている卵がたくさん入っていて、そのうちの一部は未償還御状態でフンの中に排出されるんだとか。
そうすると、捕食された場所から離れたところで卵がかえって、ナナフシモドキの生息範囲が広がるのだ!
まさに、「転んでもただでは起きない」を地で行く戦略。
今後は、ナナフシモドキ以外の昆虫でも同様の現象がないかさらに調査を進めるんだそうだよ。
将来世代を捕食されて遠くに運んでもらうのは植物だけではなかったのだ。

そして、ほぼ同時期に、同じような話がやはり話題になったのだ。
それは、ニホンリスが毒キノコの代名詞とも呼べるベニテングダケをかじっている写真。
どうも、ニホンリスはベニテングダケや天狗岳のような人間には毒性のあるキノコを普段から食べているらしいんだよね。
まだ詳細が解明されたわけじゃないけど、おそらく、リスの場合はこれらのキノコの毒に耐性を持っているのだ。
でもでも、キノコも食べられるわけじゃないのは当たり前。

もともと「キノコ」と呼ばれるものは、胞子を放出・拡散させるための器官である子実体と呼ばれるもの。
外から刺激を受けると粉上の胞子を放出して、周りに生息域を広げるのだ。
ただ単に放出しただけだとすぐ近くにしか広まらないけど、風に乗ったり、昆虫や動物の体表面に付着すればもっと遠くまで行けるわけ。
触ると粉を吹くキノコはまさにこういう戦略。
で、今回の場合は、キノコを食べたリスが遠くで未消化の胞子の入った排泄物を出すことにより、生息域を広げる、ということのようなのだ。
もともと胞子の状態はわりと強いので、そうではないか、と考えられているようだよ。

リスといえば、クルミやドングリを後で食べようと地中に隠しておくんだけど、その一部は結局食べられないまま忘れられ、そこから新しい目が出る、というのも有名。
そういう木の実だけでなく、どうもキノコを拡散するのにも貢献しているようなのだ。
イノシシやシカのような大型の動物に食べられてしまうと根こそぎいかれるけど、リスくらいの大きさなら多少たべっれても大丈夫、ということなんだろうか?
謎は深まるばかりだ。
僕は前から秋になると出てくる「リスがキノコをかじっているイメージ」というのはリアルではないと思っていたんだけど、リスはこうして毒キノコを食べるそうなので、むしろリアルなことだったようなのだ。
びっくり。

2023/10/21

世を忍ぶ、仮の・・・

日本の風俗の中には、いろんな宗教がごちゃまぜで混ざっているんだよね。
例えば、多くの日本人は初詣に神社に行き、お彼岸やお盆にはお寺に墓参りに行き、ハロウィンに仮装して大騒ぎし、クリスマスにプレゼント交換をするわけだよね。
すでに神道と仏教、儒教、ケルト信仰、キリスト教が混在している!
これはいまに始まったことではなくて、仏教伝来以降、徐々に徐々に日本古来の進行と仏教は混ざっていって、そこに中国の道教や儒教も影響も加わり、という感じだったのだ。
そもそも、仏教が日本に伝来する段階で、インドで生まれた原始仏教は地元でヒンドゥー教を取り込み、チベットを経て中国に伝わる間にさらに変容し、それが伝わっているわけで、純粋な仏教ではなく、すでにいろんなものが混ざった状態で来ているのだ。
そもそも、お釈迦様の教えでは偶像崇拝で禁止で、そのために「仏足石」やら「舎利」やらをありがたがっていたはずなのに、日本に伝来するころにはもう仏像があるわけ。
これは世界宗教化していく過程でいろんなところの土着の進行や風俗を取り込んでいくから仕方がないこと。

で、日本におけるその最たるものが、「本地垂迹説」。
日本の神様の本体は仏様で、日本においては神様という仮の姿をとって顕現しているのだ、というもの。
これを「権現」というのだ。
「権」は「仮の」とか「臨時の」という意味。
例えば、東大本郷キャンパスのすぐ近くにある根津神社は根津権現とも呼ばれるけど、御祭神はスサノオノミコトで、その本地仏は十一面観音と言われるのだ。
世界遺産でもある比叡山延暦寺と日吉神社の関係で言うと、伝教大師最澄が開山する前から土着の信仰(山王信仰)を集めていた地主神が日吉神の本地仏が大日如来で、この日吉神こそは大日如来の権現である、とするのが、天台宗から出てきた山王神道の考え方なのだ。
キリスト教において地元の神様を「守護天使」のような形で取り込んでいったのと同じようなことなんだけど。
(敵対していた異教徒の神は悪魔にされてしまうんだよね・・・。)

で、中世以降、仏教と神道は「神仏習合」して、一体不可分な形で信仰されていたんだよね。
っていうか、新党には明確な教義とかないし、一般大衆は深く宗旨などを理解して信仰していたわけでもないので、そういうありがたいものだ、という信仰形態だったのだ。
そもそも修験道なんかは仏教なのか神道なのかよくわからない信仰だよね。
大きな神社には別当寺や神宮寺と呼ばれるお寺が併設され、お坊さんたちが神社のお世話もしていたのだ。
なので、日光なんかは、今でいう日光山輪王寺と日光東照宮、二荒山神社が混然一体となって日光権現として信仰されていたんだよね。

転機が訪れたのが維新後の明治期。
天皇中心の統治機構を整備しようと国家神道の枠組みを作ろうとしたわけだけど、その時に出た神仏分離の方針(神仏判然令)が問題だったのだ。
お寺と神社を明確に分けろ、という話になったんだよね。
とはいえ、金勝日体となっていたわけで、そうそう簡単に分離できるわけもなく、というわけで大混乱が起きるのだ。
また、明治政府は必ずしもそういう意図があったのではないかもしれないけど、廃仏毀釈の流れもできて、寺院はすたれていくことに・・・。
東京深川の冨岡八幡宮は百貫神輿で有名だけど、そのお隣の深川公園にはもともと永代寺というお寺があったのだ。
でも、この時の神仏分離でお寺と神社が切り離され、廃仏毀釈でお寺だけなくなっちゃったんだよね・・・。
そのあと、成田山新勝寺の東京別院である深川不動堂ができたので、今では別のお寺があるのだ。
永代寺は、江戸六地蔵があって江戸庶民の信仰を集めていたお寺なんだけど、そういうおテレでも時代の波には乗り切れなかったのだ。
都内には上野と芝に東照宮があるけど、これらもそれぞれ寛永寺と増上寺からそのときに分離されたんだよね。
徳川将軍家の菩提寺で墓所もあるようなお寺だからこそ東照宮も造営されたわけだけど、そういうのも無視して、切り離すしかなかったのだ。

こうして、いわゆる「権現」という名称は正式には消えていったのだ。
今でも残っているのは通称で、明治期にだいたい「〇〇神社」という名前に改称させられているのだ。
神道を中心にしようとすると、仏教の神様が本体で、日本の神様としての姿は仮のものです、というのはあんまり都合がよくないのだ。
このとき、巻き添えを食ったのが「明神」という呼び方。
もともとは霊験あらたかな神様の尊称として、地域名に明神号をつけて呼んでいたんだよね。
神田明神も通称では残っているけど、正式には神田神社になっているよ。
神社のヒエラルキーを無理矢理整備しようとしてなんの神様が祀られているのかよく分からない神社のご祭神も一つ一つ決めていったんだよね。
この明神号というのは便利で、その土地の有力な神様という呼び方なんだよね。
なので、そうやってこじつけでも神様を特定しちゃうとそっち系統の名前に変えるように、となるのだ。

神田明神の本来の御祭神はオオナムチノミコトで、そののちに御霊信仰の祟り神として平将門公がまつられたんだけど、明治になって陛下が御幸するにあたり、逆進である将門公が祭神ではまずいと、茨城大洗の磯前神社からスクナビコナノミコトを勧請し、差し替えたりしているんだよね。
そんなに足したり引いたり簡単にできるのか、と感心しちゃうけど。
でも、おそらく江戸庶民の間では将門公をまつった経緯なんてあんまり意識されていなくて、江戸の総鎮守として信仰されていたんだよね。
こういう、どの神様がまつられているかよくわからないんだけど信仰を集めている神様の名称としては「明神」というのは便利なんだよね(笑)
実際、御祭神不明の神社はたくさんあって、明治期に無理やり記紀神話に出てくるメジャーな神様を比定したなんて話もあるので、神話上の神様の特徴とその地元で信仰を集めているかどうかはまた別の話ということなんだろうね。

2023/10/14

因果で因縁

ジャニーズ問題も引き続き炎上しているけど、旧統一教会問題も、いよいよ解散命令かと再燃してきたのだ。
宗教としての教義とか儀式とかについてとやかく言うモノではないんだろうけど、問題は、その宗教団体がいわゆる「霊感商法」のような悪質な活動を行っていることが問題なんだよね。
それが宗教法人法の解散要件に当たるようなものかどうか、というので裁判所の判断が必要なんだよね。
ま、「幸せになる壺」とか「悪運を払うお守り」みたいなのは、「信じる人は救われる」の世界があるにはあるのだけど、それがあまりにも高価なもので、破産したり、多額の借金を背負ったり、生活が破綻したあり、というところまで金を吸い取ろうとすると問題なんだよね。
ま、そこが「程度の問題」で難しいわけ。

程度の差こそあれ、この手のものは歴史的にもいろんな宗教で集金メカニズムで使われてはいるんだよね。
墓地の管理とか永代供養なんかもそうだし、後の宗教改革につながった贖宥状(免罪符)なんかもそう。
神社とかで祈祷をしてもらってお布施を納めたり、各種お守りを授与してもらうのもある意味は近いよね。
おそらく悪質性のポイントは、過度に不安を煽ったり、半ば洗脳していってそうせざるを得ないように追い込んでいくこと。
かつてオウム真理教では、セブンデイズとか呼ばれる合宿に参加させてもうろう状態にして入信させ、全財産を教団に寄付させる、みたいなのをやっていたわけだけど、これはやりすぎってこと。
この壺を買うと幸せになります、はいいとして、買わないと不幸になる、地獄に落ちるなどと脅すのはまずいのだ。
なんか紙一重だけど。

宗教はもともと人の知り得ない、不可知の世界に対する漠然とした不安を払拭するためのツールとして機能してきているのだ。
死んだらどうなるのか、この世界はどのようにできたのか、など。
これに加えて、集団による社会生活が円滑なものとなるような倫理規範を示してきたのも宗教に寄るところが大きいんだよね。
なぜ悪いことをしてはいけないのかにつうて、ゲーム理論などを使って、各自がそう行動する方が最終的には集団にとってプラスになる、なんてのはおそらく証明できるのだけど、それを万人に理解してもらうのはほぼほぼ不可能。
だったら、神様が常にご覧になっていて、悪い子とすると地獄に落ちる、良いことをすれば天国に迎えられる、とした方が受け入れやすい、ということなんだよね。

これと同じようなものが、祈祷であったり、お守りであったりするわけで、物理的には、それによって何らかの効果があるとは証明できないのだけど、気持ちの問題として、そうすると「安心感」を得られる、ということなのだ。
大事なのは、それぞれが心の安定を手に入れることができる、というポジティブな面で機能していること。
キリスト教における教会での懺悔も、あらかじめ神に自分の罪を告白し、許しを請う、ということで、死後地獄に落ちるかもしれないという不安を軽減するのだ。
実は江戸時代以降に出てきた「水子供養」というのもそうで、もともとは東横線の祐天寺駅に名前を残す祐天上人が始めたと言われるシステムで、生まれることなくなくなった胎児、或いは、生まれてもすぐになくなってしまった嬰児たちに、戒名を付けてちゃんと供養をしてあげる、というものだったのだ。

もともと仏教式の供養というのは、使者を敬うものに見えつつ、生者のの中できちんと区切りを付ける、ということが目的なんだよね。
死んでしまってもういない、それを儀式をとして受け入れさせる、というものなのだ。
でも、この水子供養というものができるまでは、七つまでは神のうち、なんていうくらいで、幼くしてなくなるのも当たり前で、ましてや、生まれてもいないような胎児はきちんと供養されていなかったのだ。
でも、親、特に母親にしてみれば大事な我が子であって、その命が失われた、ということなんだよね。
そこで、そうした水子もきちんと供養してあげれば来征に命をつなぐことができる、だから安心してあの世に送ってあげましょう、ということをわからせるのが水子供養の本質。
実は、祐天上人はこれにより女性信者の信仰を多く集め、五代綱吉公の生母の桂昌院やその他大奥の女性は深く帰依していたんだそうだよ。
女性の悩みを救ったわけだよね。

ところが、現代の霊感商法ではこれを逆にして悪用されているんだよね・・・。
あなたが不幸なのは水子をきちんと供養しなかったからたたっているんだ、とかなんとか。
これはむしろ不安を増大させるわけで、それにより心の平穏を欠いて、正常な判断ができにくくなった人をダマして、という構図。
確かに運もあるけど、「運がない」と感じる場合、けっこう自業自得なこともあるわけだけど、多くの人はそれを認めたくないからその原因を外に求めるんだよね。
そういうついてないな、運が悪いな、と感じている人に近づいて、そういう責任転嫁的な自分への甘さをくすぐって、悪い人が近づいてくるわけ。
で、あなたの不運や悪運は呪いや祟りによるものだから、それを祓わないと大変なことになる、と持ちかけるわけだよね。
このとき重要ななのは、全員が引っかかる必要はなくて、百人に声をかけて一人でも引っかかれば、この詐欺的な行為は成立するということ。
けっこう搾り取ればいいだけだから。

こういう極端な例だけ挙げていけば悪質なものは取り締まるべき、とはなるんだけど、厄除けだとか、地鎮祭だとか、おそらく物理的には何も意味をなさない宗教的な行為、しかも、けっこうお金がかかるものが普通な風俗、慣習として世間に受け入れられている中、どこから取り締まるのか、という線引きは実は難しいんだよね。
今回の件はそれの一つのメルクマールにはなるのだ。
ここで一定の基準ができれば、外にも引っかかるところが出てくるんじゃないかな。

2023/10/07

かおる季節

 なんか一気に秋めいてきた。
朝晩の気温がぐっと下がったよね。
でも、今年の紅葉はちょっと遅めになりそうとのことだけど。
で、この時期、足下がちょっとにおってくるのだ。
イチョウの落とし物、オレンジの憎いあいつ、ぎんなん。
でも、これからの時期ににおってくるのはそれだけじゃないのだ。
それは・・・。
足臭!

夏の間は汗をかいている実感もあって、オフィス内では積極的に靴を脱いだりしてサンダルとかに履き替えるから、実はひどくならないのだ。
問題は、涼しくなってきて汗をかかないなぁ、と感じでずっと革靴を履いているとき。
脱ぐと一気に鼻に来る!
女性の場合はブーツでにおいが醸成されるというよね。
確かに革靴より広い範囲にわたって密閉されているし、何より、女性の場合は全く汗を吸わないナイロンのストッキングをはいたりするからなぁ。
なので、実はこの時期くらいから足臭対策のスプレーとか石けんとかそういうのが売れるのだ。
そのうちコンビニやドラッグストアでもよく見かけるようになるはず。

このにおいのもとは主にイソ吉草酸(3-メチルブタン酸)。
低級な(=炭素数の少ない)カルボン酸は炭素数が2の酢酸や炭素数が3のプロピオン酸、炭素数が5の酪酸も不快な臭気なんだよね。
ちょっと酸っぱい感じのやなにおい。
中でもイソ吉草酸はまさにくさい靴下のにおいだよ(そのまま)。
いわゆる汗臭いにおいは主にアンモニアだけど、それが目が痛くなるような刺激臭だけど、それとはまた違って、なんだかじわじわくる臭さなんだよね。
ぎんなんの臭さは酪酸なので、似たような傾向かも
職場で足下の方がくさいとき、それはぎんなんを踏んだからなのか、もっと「中」のことなのか・・・。

このにおいのもとであるイソ吉草酸は、人間自身が分泌しているわけではないんだよね。
足の裏は手のひらと同じくらい良く汗をかく部位なんだよね。
これはもともと滑り止めの意味があったのだ。
で、その汗をかくときに、汗の中に皮脂や古くなった角質なんかが混ざって、それを皮膚の表面上にいる常在菌のバクテリアが分解する過程で不快なにおいのもとができてくるのだ。
なので、においのもとを断つには、

①指の股も含めて足を良く洗い、きれいに保つ(汗の中の皮脂や角質を少なくする)。
②靴の中の通気を良くする(じめじめしている環境だt菌が繁殖しやすいので、できるだけ乾燥した状態に近づける)。
③スプレーや塗り薬で対処する(汗を出にくくしたり、においを出す菌を物理的に減らす)。

なんてのが効果的。
ストレスがかかったり食生活が乱れていると、汗の中にあらかじめ分泌される皮脂やタンパク質の量が増えて、ちょっととろっとした感じになるんだよね。
汗がこういう状態になるとよりくさくなるので、そういうところの見直しもにおいの軽減には役立つのだ。

でもでも、においなので靴や靴下にしみこむこともあるわけで・・・。
靴下なんかは煮沸してから洗うなんて荒技もできるけど、靴はこまめに陰干しするのが基本。
革靴は2日連続ではかない。
網においが染みついちゃっているよ、というときは、薄めの重曹水を用意して、それを布などにしみこませて靴の中をふく、というのもあるのだ。
においのもとはすべてカルボン酸で塩基性溶液にとけるので、においのもとが布の方に移るというわけ。
逆に、アンモニア経の汗のにおいがしみこんでいる場合は、ちょっとお酢を入れて酸性にしてすすいであげるとにおいが取りやすいのだ。
こういうときに化学って役立つよね。

結構前、職場の同僚でけっこう強烈な人がいたんだよなぁ。
靴を脱いだ瞬間がわかる人(笑)
ぜひぜひこういう対策を進めたいね。
よろしく。