2024/02/24

高菜、食べてしまったんですか?

「高菜、食べてしまったんですか?」と言えば、有名な意識高い系のラーメン屋さんコピペ。
スープの味を大事にしているから、まずはスープから飲んでほしい云々。
で、ラーメンを待つ間にテーブルに置いてあった高菜をつまんでしまったお客は食べさせてもらえず帰されるのだ。
高菜を食べてしまうと、繊細なスープをきちんと味わえないからとか。
で、同じような話として、寿司屋ではまず淡泊な白身から初めて、トロやウニのような濃厚なものは後、穴子なんかは最後、みたいなのがあるよね。
先に濃厚なもの、味の濃いものを食べてしまうと、鯛や平目のような白身の魚の味のうま味は感じられなくなる、ということらしい。

確かに、その間に何も口の中に入れな蹴れればそうかもしれないけど、鮨の場合は途中にガリやお茶を口に入れるからねぇ。
ガリはショウガの辛味で口の中をすっきりさせるとともに、ショウガの辛味で唾液の分泌を高めるのだ。
もともとは殺菌効果を狙ったものだろうけど、口の中がさっぱりするよね。
寿司屋特有の熱いお茶も、口の中の前のネタの味を洗い流すため。
脂ののったネタの場合、それが口の中に残っていると次のネタの味に混ざるからね。
これを熱いお茶で洗い流すのだ。
もともと水に溶けにくい物質なので、熱いお茶がいいというわけ。

いわゆる魚の生臭みの下は、腐敗の過程で出てくるトリメチルアミン。
これは水によく溶けるので、水分を拭き取ってあげるとかなり軽減するのだ。
塩を振って水分を表面に出し、それを拭き取ると臭みがとれるよ。
口の中が生臭くなったなぁ、と思ったら、とりあえず水を飲めばいいわけだ。
今ほど冷蔵技術や流通が発達していなかった頃は、どうしても鮮度が落ちたネタしかないので、この腐敗やそれに伴って出てくる臭み対策が重要だったわけだよね。

なので、塩や酢、昆布で締めたりして水分リョを減らして腐敗を進みにくくする。
或いは、塩分濃度の高いタレに漬けることで腐敗を防ぐ。
こういうのがネタの基本。
トロみたいなネタはすぐに腐るので江戸時代は食べずに捨てていたとか。
ウニなんかも新鮮な状態で長距離運べないので、山地から遠いところでは塩ウニとかにしないとダメなのだ。
ま、江戸時代はウニの寿司はないだろうけど。

で、この頃は寿司は軽食、ファストフード扱いで、基本は立ち食い。
おにぎりくらいの大きさの寿司を包丁で二つに切ってもらって食べていたらしいよ。
なので、寿司は一皿2貫が基本と言われるよね。
で、そういう食べ物なので、お酒とともにゆっくり楽しむ、というものでもなく、さっと来てさっと食べる、みたいなものだったらしい。
なので、寿司に合わせるのは、簡単に出せる粉茶が基本で、ネタもそんなに鮮度がよくないのもあって、口の中に残る臭みを洗い流すのだ。
食べた後はのれんで指先を拭くのが基本だったので、はやりの寿司屋はのれんが汚れていたとか。

というわけで、もともとはそういう食べ物なので、あんまり順番とか考えるようなものでもなかったんだよね(笑)
好きなものをつまめばいいだけ。
なので、こういう味が濁るみたいな話は、寿司が高級化してからの話なのだ。
そういう意味では、このコピペはラーメンが高級化する過渡期なのか。
たしかに、海外ではラーメンってけっこう高級な食べ物なんだよね・・・。

2024/02/17

リリース&キャッチ

 ネパールの地元政府は、エベレスト(チョモランマ)の登山者に対し、排泄物の持ち帰りを義務付けることにしたそうなのだ。
ちなみに、登山前に、中で排泄物を固形化・無臭化する特殊な袋を渡し、ベースキャンプまで持って帰ってもらうのだとか。
これまでもゴミの持ち帰りを求めてきたけど、今回はさらにその上を行く話。
プラスチックのような生分解性でないものについての持ち帰りは当然と思うけど、なぜ排泄物も持ち帰らないといけないのか?
ちょっと穴を掘って埋めておけばかえって肥料になるようなきもするけど・・・。
これには、8,000mを越える高さを誇る高山であるが故の理由があるのだ。

そもそも、エベレストの山頂付近のような超高度の場所だと、ものが非常に腐りにくいのだ。
バクテリアやカビがいないということはないけど、年中低温なので腐敗反応が進みづらいんだよね。
なので、生ごみのような放っておけばくさるようなものでも、エベレスト山頂付近ではほぼほぼずっとそのまま残って、水分だけ抜けていくんだよね。
昆虫の類もいないので、かじられたりすることなく、しぼんでいくだけ。
冷蔵庫の奥の方で見つかる、数年前の食材のように・・・。

つまり、し尿についても同様で、穴を掘って埋めておいても冷やされた、或いは、氷漬けになったし尿のままなのだ!
臭いはとんでいるだろうけど、自然に帰るわけではないわけ。
実際、エベレストのような高山の場合、山頂付近で人がなくなると、担いでは下りられないケースも多く、そのまま放置するしかないんだよね。
でも、その死体は腐らないので、そのまま残るのだ。
エベレストの場合は年中氷点下なので氷には覆われるらしいけど、近年は温暖化の影響で再び露出してきた死体もあるみたい。
っていうか、死体の中には「グリーンブーツ」よ言われるもののように目印になっているものとあるんだって。
天然にミイラができちゃうわけだよね。
アルプスの氷河で見つかったアイスマンのように。

地上で死体を放置した場合は、仏教で諸行無常を説くために使われる九相図(くそうず)にあるように、徐々に腐敗していくのだ。
内臓から腐り始めて発生するガスでおなかが膨らみ、肉や皮膚がボロボロになって溶解しだすのだ。
その後、ウジがわき、鳥獣がついばんで骨についた肉もこそげていき、最後は白骨が残る、という感じ。
こういう過程が進まず、そのまま少しずつ水分だけ抜けていくんだよね。
エベレストの場合は、そもそも近年になってからしか登山者の事故死が発生していないので、ミイラと呼べるほどには乾燥はしてなくて、普通に氷漬けの死体があるみたい。
アルプスのアイスマンの場合は、数千年の時を経て乾燥して自然ミイラになっているのだ。
おそらく、エベレストの死体もこのままだと数千年後にはそうなる感じ。

エベレストくらいの高度になると、空気が薄すぎて浮力が得られず、ヘリコプターが使えないそうな。
なので、重いものでも人力で運ぶしかないのだ。
そうなると、なかなか死体を下ろす、という感じにはならないんだよね。
ボランティアでゴミを持ち帰る運動はしているみたいだけど、今のところは死体には手つかず。
ばらしたりしたらひょっとしたらが運べるかもしれないけど、それはそれで死体の尊厳の話が出てくるよね。
そんなこんなでそこは手を付けないみたい。

一方で、山頂付近で発生するごみや糞尿は、もともと登山者が持ってこられたほどの重量のものなので、当然持って帰ることができるもの。
だからこそきちんと持ち帰りましょう、ということなんだよね。
この山からのごみの持ち帰りはエベレストのような高山の話だけではなくて、日本では富士山でも問題になっているんだよね。
富士山では入山料(任意)をとってバイオトイレを整備したりもしているけど、世界遺産登録されてから観光客も増えてごみ問題が大きくなってきているみたい。
さすがに富士山は山頂付近にもトイレはあるみたいだけど、せめてごみは持って帰らないとね。

2024/02/10

草を食む

 ドンキで安売りしていたので「ヴィーガン・グミ」というのを買ってみたのだ。
完全植物由来原料なんだって。
味はというと・・・。
なんかちょっと固くて、もそっとしてる。
普通のグミの方がおいしいと思うけど、グミの主成分であるゼラチンは、塗擦された家畜の食肉に加工されなかった部分(牛豚の骨や皮、鶏の足とか)を原料にしているので、ヴィーガンには食べられないのだ。
なので、グミは食べたいけど、というニーズに基づいた商品なんだよね。
とはいえ、あまり売れなかったからドンキで安売りされているんだろうけど。


ヴィーガンは完全菜食とも呼ばれるけど、単に、その思想の根底に、「人間が生きるために動物を犠牲にするのに反対する」というコンセプトがあるので、牛乳やハチミツもだめなのだ。
動物から搾取してはいけないんだって。
毛皮や革製品もだめ。
むかしなら到底生きていけないようなライフスタイルになるけど、合成皮革とかもある現代だと何とかやっていける感じだね。
で、そういう思想だからこそなのか、自分がそういう生き方をするというだけでなく、まわりの人にも「啓蒙」しようとしてくるのだ。
これがネット上とかでヴィーガンが嫌われる原因でもあるんだよね。
欧州では肉屋さんを集団で襲ったりもするらしいから本当に過激なんだけど。

で、どの世界にも「行き過ぎ」は出てきて、ヴィーガンの例で言うと、赤ちゃんや子供に親がヴィーガン食を強制することで、栄養失調になったり、場合によっては亡くなったりする例が知られているよ。
牛乳もだめな中で植物しか食べないと、どうしてもタンパク質が不足するのだ。
これは子供には痛い話。
大人であっても、ヴィーガン食では必須脂肪酸(特にω3系)やビタミンB12、ビタミンDが不足しがちだと言われているよ。
なので、現代のヴィーガンはこれらの栄養素をサプリで補給するとか。
一応、そのサプリの原料も動物由来でないことを確認しているそうな。

で、ふと思ったんだけど、日本の禅宗における精進料理って、ヴィーガン食なんだよね。
もともと牛乳を食材としていないからそこもOK。
でも、けっこう禅宗のお坊さんって長い間修行しているけど栄養失調になったみたいな話は聞かないような・・・。
隠れて食べている、なんてことを言う人もいるけど、日本の精進料理の場合は、大豆加工食品を大量に使うことで、タンパク質の不足問題は解決しているのだ。
豆腐や油揚げ、がんもどき、湯葉は豆乳を加工して作る食品で植物由来食品としてはタンパク質が豊富。
今でいう代替肉の大豆ミートみたいなものだからね。
さらに、味噌やぬか漬けのような発酵食品をとることで、ビタミン類も補給しているのだ。
わりとキノコもよく食べるので、シイタケからビタミンDも摂取できるのだ。

問題はビタミンB12。
これは動物性食品だとわりと含まれているのだけど、逆に、植物性食品にはほとんど含まれていないのだ・・・。
そんな中、」植物性で比較的多く含んでいるのが海苔。
禅宗の精進料理で海苔がたくさん出てくるようなイメージはないけど、食材として使わないわけではないよね。
おそらくはこれが鍵だと思うのだ。
それでも、不足しがちにはなるんだろうけど、重篤な欠乏症にはならない程度じゃないかな。

精進料理の方が欧米式のヴィーガン料理より栄養学的には優れているようにも見えるけど、そうでないところも当然あるわけで。
欧米式では生野菜や果物を摂るので、ビタミンCは全く問題なく摂れるのだ。
ところが、日本には生野菜を食べる習慣がほとんどない。
精進料理の野菜はゆでたり煮たりされている!
なので、実は緑茶でビタミンCを補給しているんだよね。
禅宗で常にお茶を飲むのには合理的な理由があるわけだね。

2024/02/03

100億年の孤独

 仏教には、弥勒菩薩(マイトレーヤ)という仏様がいるのだ。
現在は兜率天で修業中の身だけど、釈迦牟尼の次にブツになることが約束されている「未来仏」。
なんと、釈迦の入滅後56億7千万年後にあらわれるとか!
っていうか、地球が誕生したのが46億年前、地球に原始生命が現れたのが40億年前と考えられているので、これまでの地球の歴史以上の長さののちにやってくるのだ。
100億年単位の話だよ!
その前に太陽の膨張によって地上に人類はいないような気がする・・・。

一応これには計算があって、弥勒菩薩が修業をされている兜率天での寿命は4千年。
兜率天での1日は地上の400年に当たるので、4,000兜率天年×400年/兜率天日×360兜率天日/兜率天年=576,000,000年となって、5億7千6百万年になるのだ。
ところが、途中で記載ミスがあって伝承されたのか、一桁上がって7と6が入れ替わり、56億7千万年になったらしい。
インド人はそういう細かいところは気にしないんだよ(笑)
気の遠くなるような永遠の時間の果てにやってくる、というイメージなんだろうなぁ。

もともと、古代インドの伝統的なコンセプトとして、輪廻転生(サンサーラ)というのがあって、今の人生を終えても次にまた別の生命として生まれ変わる、今の人生の前も別の生命として生を全うしていて、それが繰り返される、とされているのだ。
はじまりがどこかはよくわからないけど、前世と来世が今世とセットになっているわけだよね。
でも、どの世界にどんな生命で生まれて来ようとも、六道(天・修羅・人・地獄・餓鬼・畜生)はすべて苦しみのある世界であって、そこから抜け出すこと(=解脱)でのみ苦しみから解放される、ということになっているんだよね。
そのために修業する必要があって、抜け出せた人は悟りを開いた人(=仏陀)になるのわけ。
でも、実はこの輪廻転生の考え方って、おそらく「死」というものへの恐怖、漠然とした不安の裏返しなのだ。

生命活動の終わり=死であるならば、死んだらそこで終わり、その先は何もないわけ。
そもそも意識が途切れるので、死は無になることなのだ。
これが「怖い」わけで、死んだらそこでぷっつりと何もかもが切れてしまって、自分というものが無になる、これが受け入れがたい。
なんとか死んでから先も自分というものが保持できないか。
そんな思想から、生と死を繰り返すみたいなアイデアが出てきているはず。
であれば、このサイクルから抜け出すことは恐怖で、死を避け、生に執着すればするほどこの輪廻転生サイクルを意識してしまって、出ることはできないのだ。
だからこそ、その執着を捨て、すべて、すなわち、無になることを受け入れないと、解脱はできない、という考え方にもなるのだ。

で、いつかは抜け出したいんだけど、それはまだいまではない、みたいになるわけで。
救済が来ることが分かっているからこそ苦しみに耐えられる、でも、その過程で生も謳歌する、ということ。
そうなると、ゴールは設定するんだけど、それは意識の外にあるような遠くにある方が都合が良いわけで、こういう途方もない数字、現実的に想像できないような遠い未来に設定してしまうんだよね。
最終的にはそこで救われることが確定しているという安心感と、今すぐに無に帰するわけではないというもうひとつの安心感を同時に得たいわけなのだ。
こういう考え方をしてしまうことこそが煩悩の塊なのかもだけど。

釈迦を中心とした原始仏教集団ができる前からこの思想は古代インドにあったらしいので、相当古いというか、人間の根源的なところに根差している考え方かもしれないのだ。
でも、もう少し時代が変わっていると、もっと近くに救済があってほしい、と思う人々が増えてくるのだ。
それはきっと戦乱とか飢饉とか社会不安が大きくなって、現世の苦しみがより耐え難いものになってきて、すぐにでも救いが欲しい、ということなんだよね。
そうして出てくるのが浄土思想。
阿弥陀如来の主催する西方浄土に生まれ変わって、弥陀の導きで解脱したい、というもの。
これは末法思想が広まってからのことのようなので、やはり社会不安が増大している時期に出てきた考え方だと思うんだよね。

浄土思想では、弥勒仏の到来を待つことなく、ただひたすら阿弥陀仏にすがって、他力本願で極楽浄土を目指すのだ。
今世は何とか我慢するにしても、もう我慢できない、次は苦しみから逃れたいう、という切なる願いだよね。
しかも、ポイントは、自分でどうこうできるレベルを越えているので、ひたすら弥陀の力にすがる、ということなのだ。
そこまで追い詰められていて、ただただ救われたいと願うのみ、もうほかにしようがない、というくらい。
その最たるものが「補陀落渡海」で、南方にある浄土、「補陀落」に行くため、南方に臨む海岸から死出の船旅に出るのだ・・・。
今の人生を生き切って弥陀に巣くってもらうのも待ちきれない、ということなんだよね。

さて、令和の今も社会には大きな不安があるよね。
特に今年になってすぐにいろんなことが起きているのだ。
こういう時代に心の安寧を保つためにはどうするのがよいのか。
気長に待つか、ちょっとがまんするか、もうがまんできないとすぐに逃げ出すか、考えどころだよね。