2022/11/26

はたらくひと

ツイッターがイーロン・マスク氏に買収されてから大変なことになっているのだ。
大リストラ。
なんか、そもそも大赤字垂れ流しにもかかわらず、あんまり働いていなさそうな陽キャをたくさん抱えていた、みたいなことを言われているけど、実際はどうなんだろうね。
で、米国ではもともと労働市場が非常に流動的に次々に好条件を求めて転職していくような風潮もあるし、こういう話はままありそうだけど、日本支社でも多くの人が解雇される、というので大騒ぎ。
一般に、日本の労働法制では解雇規制が厳しいのでこういうのがやりづらいはずなんだけど、外資系の場合は毎年契約更改の年俸制雇用だったりするから、ひょっとしたらいけるのかも。
それと、解雇の場合は30日以上前に通告すること(労働基準法上の解雇規制)、というのを逆手にとって、それまでの給与を支払った上での解雇だから問題ない、なんていう声も。
実態がわからないからなんとも言えないけど。

この問題で、改めて日本の伝統的な雇用システム、いわゆる「三種の神器」が取り沙汰されているのだ。
すなわち、「終身雇用」、「新卒一括採用」、「年功序列型賃金」の3つ。
本当に日本独自かどうかはよくわからないけど、この3つが合わさった形の雇用形態はけっこう特殊なようで、小泉内閣以降グローバリズムの流れの中で雇用システムの改革が試みられているんだよね。
これが中途半端に入ってくるとけっこうつらくて、今の日本のように非正規雇用が異様に増えたり、いわゆる「雇い止め問題」なんかが発生しているのだけど。

最初の「終身雇用」はまさに字義どおりで、一度奉職したら最後まで勤め上げることを前提にした雇用制度。
なので、一度雇用してしまうと最後まで雇い続けないといけないので、雇用する側も勤続年数に応じて職階を変えつつ仕事を与え続けないとダメなわけ。
その年次進行のプロモーション(出世)からはずれると「窓際」になるのだ。
海外ならくびになってもおかしくないのだけど、解雇規制が厳しいので(大きな損害を与えるような不祥事や不始末があったのならともなく、単に仕事ができない、というだけではくびにしづらい。)、「飼い殺し」になるわけ。
で、雇われている方も、「終身雇用」を前提としたシステムの中では転職や中途採用も難しいので、甘んじてそれを受け入れるのだ。
今となっては、「窓際」として買い続けることもできないので「追い出し部屋」みたいな殺伐とした世界になっているけど・・・。

次の「新卒一括採用」は、原則として高校や大学を卒業したタイイングでのみ新規採用を行うという考えで、旧来の日本のシステムは、「終身雇用」を前提に人を雇用しながら育てていってより高位のポストに昇進していってもらう、というのが原則なので、転職組の経験者採用、中途採用をあくまでも例外扱いしてきたんだよね。
でも、これがずっと続くと労働市場の流動性がほぼなくなるし、氷河期世代で明らかになったように、このタイミングで就職に失敗するとそれがずっと尾を引いて正規雇用にたどり着けない、などの問題があって見直しが言われてきたのだ。
なので、「第二新卒」だとか、「卒業後3年以内は新卒扱い」だとかそういう取組をしてきているんだよね。
最近はかなり転職への抵抗感も薄れて、世に転職エージェントや転職サイトがあふれているけど、幹部候補生になる、いわゆる「総合職」については、帰属意識を強く持ってもらってエリートとして育成したい、みたいな信仰があって、新卒採用にこだわるところもあるよね。
どうしても日本式のスタイルだと、組織を「家族」のように見なす傾向があるので、経営責任がある人が外様というのだと違和感がある、ということで、自分たちでゼロから育てたい、となるんだよね。
逆に、海外の場合は、経営センス、スキルのある人にきちんと経営を担ってもらうべき、ということで、経営層も普通に外から来たりするわけだけど。
日本は官庁や銀行の出身者が子会社の役員になると、【現場のことが何もわかっていない」とかいってもめる、みたいなステレオタイプもあるよね。

最後の「年功序列型賃金」もくせ者。
これは、仕事上の能力に何の変化がなくても、勤続年数に応じて給与が上がっていく、というシステムなのだ
橋下さんが大阪で府知事や市長をしていた時代にさんざん訴えていたけど、公営バスの運転手や給食の調理を担う人は、なんら仕事内容に変化はないし、スキルの向上がなくても給与が自動的に上がっていくのはおかしい、というもの。
出世して責任と権限が大きくなって給与も上がる、というのはわかるけど、仕事内容の変化がないのに、長く勤め上げるだけで給与が増えるのはおかしい、という論調。
確かに、欧米の場合はこういうことはまずなくて、「同一労働同一賃金」の大原則で、インフレ率の反映を除けば同じ仕事祖師続ける限りは給与には変化はないのだ。
むしろ、給与を上げたいと思ったら、昇進や転職をしてそれなりの仕事内容に変える必要がある、ということなんだよね。
海外はこうなっているから仕事を次から次へと移る人が多いわけ。


昭和の時代はいざ知らず、さすがにもうこの「三種の神器」を堅持した労働システムは破綻しているので、経団連を中心に改革しようという声が上がるんだよね。
小泉改革の後には、派遣業法が改正されて一気に非正規雇用が増えたけど、先にも挙げた厳しい解雇規制のおかげで正規職員として採用するとくびを切れないので、派遣で来てもらう形で、多少割高になっても必要なときに必要な人材を確保する、ということが主流になったのだ。
ところが、こうなると労働市場が極めて不安定化するわけで、さすがに批判の声が強く出るわけ。
そこで、最近進められようとしているのが「ジョブ型雇用」。
大手企業なんかではわりと仕事内容をきちっと規定できる職種では導入が進んでいるみたい。

「ジョブ型雇用」の場合、Job Descriptionの中で明確に用務内容が規定されていて、それにみな宇給与が設定されているのだ。
で、基本的にはその業務を続ける限りはその条件がずっと続くわけ。
その業務が期間限定であれば任期付になるし、勤続年数が増えても原則として給与は上がらないのだ。
雇う側から見ても、そこに規定される業務の要不要という形で検討できることになって、「窓際」みたいなことは考えなくていいのだ。
その業務が不要になればその雇用契約はなくして、別の契約に振り返ればいいというわけ。
雇われる側が新たな業務内容が不満であれば出てってもらって新たな人を入れればいい、みたいな。
極めてドライな欧米式のやり方なのだ。

理論的にはそうなんだけど、やはりこれが日本の風土・文化にぴったりとはまるかどうかはけっこう微妙だと思うんだよね。
意識は瀬宇土も儒教の教えは染みついていて、年長は敬うべき、みたいな文化があるからね。
それと、愛社精神という名の帰属意識の問題もあって、そうやってドライに契約に基づいて職を得ている場合、何かあったときに体を張ってがんばれなくなるのでは、みたいな根性論もあるのだ。
もはやそういうのは前時代のモノとしてなくしていく、ということなんだろうけど、現役の経営層、特に中小企業なんかではそうした考えがまだまだ根付いているから、なかなか難しいんだよね。
こういう労働市場の流動性の問題は、一部の大手だけができていても回らなくて、社会全体がそっちの方を向いていないと成立しないのだ。
あので、これが定着するのはまだまだ時間がかかるだろうなぁ。
今回のツイッター社の件で外資の雇用システムは怖い、みたいな印象も受けているし、雇われる側にはメリットがあるよ、ということが示せないと広がってはいかない気がするのだ。

2022/11/19

か~べ~ぬ~り~

ミラノに行ったとき、世界遺産にも登録されている、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院のレオナルド・ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」を見たのだ。
欧州の協会の壁画って、基本的にはフレスコ画で、壁表面に漆喰を塗ってそれが乾く目にその上に顔料を載せたもの。
これはわりと長持ちするのだ。
でも、フレスコ画は塗り直し不可、色重ね不可、漆喰が乾くまでのごく短期間に描き上げないといけない、などの制約があって、「この「最後の晩餐」は別の手法で描かれているよ。
壁の表面に薄く樹脂の膜を塗って、その上に卵白で絵の具を溶くテンペラ画で描かれているんだ。
これだと、板やキャンバスに描くのと同じで、時間をかけて描けるし、塗り直しも色重ねもできるのだ。
ただ、問題は耐久性。
膜の上のテンペラ画はいいのだけど、壁から膜がはがれるのだ・・・。
これで修復が大変なんだよね(>_<)
やっぱりフレスコ画っていうのは先人の知恵の詰まった装飾法だったわけだね。

漆喰は、消石灰(水酸化カルシウム)を主成分とした建築材料で、洋の東西を問わずに使われているもの。
基本的にはペースト状にして壁に塗るんだけど、乾いていく過程で空気中の二酸化炭素を吸収し、消石灰が石灰(炭酸カルシウム)に化学変化するのだ。
これは石灰水に息を吹き込むと水に不要な石灰が生じて白濁する、という小学校でよくやる実験の反応と同じ。
さらに過剰に二酸化炭素を供給すると炭酸水素カルシウムになるので再び透明に戻るよね。
でも、漆喰の場合は、最初の石灰化が乾燥過程でゆっくり進んでいって、その後はもう水が少ないので次の炭酸水素カルシウムが生じる反応はあまり起こらないのだ。
なので、壁の表面に卵の殻のような水をはじく高いコーティングができあがるんだよね。
これが壁の防水性の向上、耐火性の向上などにつながるので、建築材料として使われてきているというわけ。

漆喰という材料自体は洋の東西を問わずに使われるんだけど、西洋のものと日本のものでは使い方が違うんだよね。
これは、建築本体をどの材料で作るか、というところが大きいのだ。
西洋の場合、基本は石積み・レンガ積みで作っていくので、その石やレンガはモルタルなんかを接着剤にしてくっつけるんだよね。
で、そうした作った壁の表面に漆喰を塗るわけだけど、こういう壁は、従量があるので縦方向には強いのだけど、横方向の力には弱くて、どうしても瀬tっや区部分が割れて崩れてしまうのだ。
そこで、表面に割と分厚く漆喰を塗ってコーティングすることで強度を増すわけ。
さらに、石積み・レンガ積みそのままでも味はあるのだけど、その表面をなめらかに漆喰でコーティングすると装飾性も高まるのだ。
教会建築なんかだと大きな壁にはフレスコ画なんかも描いたわけ。
立体的にレリーフなんかを浮き彫りにする装飾もあるよ。


一方、日本の壁の骨組みは木造。
骨組み自体はきっちりしているので、それが壁や塀になるように漆喰を塗るのだ。
なので、防水性や耐火性は重要なんだけど、コーティングによる強化、ということではないので、むしろ木造の骨組みに均一に塗りやすくする方が重要なわけ。
このため、日本の漆喰は消石灰に「すさ(麻やわらなどの植物繊維)」や海藻(ふのりなど)を加えるんだ。
消石灰が石灰化して固まると少し体積が減るので、収縮が起きるのだ。
これを防止するために「すさ」を入れるんだけど、こういう繊維質のものが入るとひびが入っても崩れにくくなるので、壁材としての強度も増すのだ(コーティングでなく、壁そのものだからこの強度が必要なんだよ。)。
海藻の方は、保水性を高めることでゆっくり乾くようにしているのだ。
表面コーティングではなく、木造の骨組みに塗り込めていくのでわりと時間がかかるので、すぐに乾いていくと作業上まずいんだよね。

日本の漆喰の装飾については、レリーフと同じように立体的に顔料を入れて色をつけた漆喰を立体的に塗る「こて絵」もあるけど、そこまでメジャーではないのだ。
なまこ壁のように、壁の方面に瓦を貼って、その間の目地の部分を盛り上げて幾何学模様にする、みたいな装飾のほうがメジャーだよね。
でも、実は高松塚古墳の壁画は漆喰の上に描かれているんだよね。
なので、古代日本では漆喰の上に絵を描いていたのだ。
でも、こういう古墳の壁画はカビたり、漆喰がはがれたり野損傷が問題になっているので、日本の風土では漆喰の上に絵を描く、というのはあんまり保存性がよくないのかも。

2022/11/12

ふところあったか

寒くなってきた。
家にいるときは、こたつやおふとんから出たくない!
でも、出かけなくちゃいけない・・・。
そんな防寒対策のひとつが、「カイロ」なのだ。
今では使い捨てのカイロが多いけど、ハクキンカイロを愛用している人もいるよね。

もともと、江戸時代は、暖めた石を布などにくるんで懐に忍ばせていたらしいのだ。
これを「温石(おんじゃく)」と言うんだって。
「懐石料理」の「解析」がこの温石のこと。
懐を暖めて空腹をしのぐ、ということなのだそうだよ。
もともとは「会席」だったものが、おなじくわび・さびの世界の禅宗に由来する「懐石」の字が使われるようになったみたい。
戦国時代は、一汁三菜のわりと質素な食事で、おそらくは【たいしたものはありませんがこちらで空腹をしのいでください」くらいの話だったんだけど、茶の湯の発達に伴って徐々にもてなしが豪華になり、今のような尾高級な料理になったようだよ。

それはそれとして、この温石だとすぐに冷めてしまうよね。
長続きしないのだ。
そこで、江戸時代になると、金属容器の中に木炭灰を入れてゆっくりくすぶらせながら燃やして発熱させる「灰式カイロ」というのが出てきたようなのだ。
これは炎が出て燃えるわけではないけど、容器の中で火がくすぶっているわけで、扱いは注意しないといけないんだよね。
でも、これはあくまでも灰をゆっくりと燃やすものなので、発熱させるには着火する必要があるのだ。

この灰式カイロはその後も細々と続くんだけど、とってかわってシェアを奪ったのがハクキンカイロ。
「ハクキン」は白金=プラチナのことで、プラチナを触媒にして、その表面上で燃料と酸素を反応させ、ゆっくりと発熱させる、というもの。
反応自体は燃焼反応と同じだけど、触媒表面で反応させることで、ゆっくりと、火を出さずに反応するので、暖かさが持続するのだ。
燃料としてよく使われるのがベンジンで、効かしたベンジンがハクキン触媒に触れるようになると発熱開始するのだ。
発熱量がわりと高い割に長持ちするので、今でも利用者がいるわけ。
でも、この反応では二酸化炭素とともに水が出てくるんだよね。
なので、カメラの愛好家がレンズがくもらないようにあたためるのにはむしろ水を出さない灰式カイロが利用されるんだって。

ハクキンカイロは非常に優れたものではあるんだけど、液体燃料を補充しながら使う、というのは少し面倒なんだよね。
その燃料は火気厳禁のものなので扱いも気をつけないといけないし。
で、発熱量は高くないんだけど、とりあえず使いやすい、ということでメジャーになっていったのが使い捨てカイロ。
今では貼るカイロ、とか、靴底にしくカイロなんてバリエーションもあるよね。

この使い捨てカイロの原理は簡単で、鉄が酸化するときに出る酸化熱なのだ。
基本は鉄粉が不織布の中に入っていて、空気中の酸素と藩王して発熱するのだ。
この発熱反応を促すため、塩化ナトリウムとか活性炭とかも入っているみたい。
空気中の酸素とどんどん反応してしまうので、基本は窒素充填などで酸素と触れないようにパッケージされていて、そこから出すとまわりの酸素と反応しだして発熱するよ。
低温やけどどには注意する必要はあるけど、そこまでの発熱量ではないので、手でもめるし、春タイプなんてのもできるのだ。
なにより、すべての原料が安いというのも魅力的なんだよね。

ちなみに、使い捨てカイロの中でもメジャーな「桐灰」は、もともと灰式カイロを扱っていた会社。
それが新たな商品として使い捨てカイロを売り出し、かつ、貼るタイプというのを考案したのだ。
いまでは小林製薬の吸収されたので、ブランド名としてだけ「桐灰」が残っているよ。
こうして考えると、一度ハクキンカイロにシェアを奪われけど、新技術で奪い返した、という話なんだね。
なかなか面白い。

2022/11/05

すでにorまだ

「風姿花伝」に由来する有名な世阿弥の言葉で、「秘すれば花」というのがあるのだ。
これは手品なんかをイメージしてもらえればいいんだけど、隠しているからこそきれいに見えるのであって、すべてをさらけ出してしまうと興ざめする、的な意味。
で、ここで言う「秘すれば」というのは、仮定条件ではなくて、確定条件なんだよね。
「もし隠していればきれい」だと、すでにあらが見えてしまっているのだ・・・。
この「秘すれば」は文語の「已然形」なんだよね。
口語の「仮定形」ではないのだ。


中高の古文の授業で習うことだけど、古文の活用は現代文とは異なっていて、古文は、未然・連用・終止・連体・已然・命令で、現代文は、未然・連用・終止・連体・仮定・命令。
つまり、「已然形」と「仮定形」のところが同じような活用語尾になるのに、意味が変わってしまうのだ。
「已然形」には大きく3つの使い方があって、
①助詞「ば」に続いて順接(~なので)、助詞「ども」に続いて逆接(~なのに)
②(四段活用の動詞の場合)完了の助動詞「り」につながる(ただし、「り」は命令形につながるとの説もあり)
③係助詞「こそ」と係り結びをして強調表現になる
だよ。
①がまさに問題で、古文では英語のandやbutみたいに使うんだよね。
逆に、古文で仮定の意味を持たせたいときは、未然形+「ば」にしないといけないのだ。
時代劇で主人公が言う「寄らば切る」とか。
在原業平の和歌でも有名な「なかりせば」のばあいは、「なかり・せ・ば」で、「せ」は過去を表す助動詞「き」の未然形とされるのだ。
「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(古今和歌集・在原業平)
(この世に全く桜がなかったとしたら、春はもっと心穏やかにいられたのに)
ちなみに、「き」の已然形は「しか」で、これは「ども」にしか続かないよ。
「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散り敷く白河の関」(千載和歌集:源三位頼政)
(都ではまだ青葉だったのに、白河の関ではもう紅葉が進んで色づいて派が地面を覆っているよ)

どうも、すでに江戸時代には已然形+「ば」という表現は口語ではあまり使わなくなっていたようで、{~なら」みたいな言い方で仮定表現をしていたみたい。
そして、なぜか漢文の読み下し文の場合、慣行として、仮定表現なのに已然形+「ば」で読むことが多かったのだ。
この辺の混乱と、そもそも仮定条件でも確定条件でも意味が通るような表現が多いこともあって、已然形+「ば」の使い方が廃れていってしまったみたい。
例えば、「物言えば唇寒し秋の風」という松尾芭蕉の俳句だけど、この解釈として、「ストレートに思ったままのことを言うと」ととらえても「ストレートに思ったままのことを言ってしまうと」ととらえても、意味は通ってしまうんだよね。
この句の場合は確定条件で解釈するのが正しいようなんだけど、仮にそのように解釈していなくてもおそらく困ることはないのだ(笑)

そんな流れもあって、明治の教育勅語には文語文法の誤用があるとの指摘があるんだよね。
それは「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」のとおろで、ここは已然形+「ば」で解釈してしまうとまずくて、仮定条件でないとおかしなことになるのだ。
だとすると、正しくは「アラバ」となるべきなんだよね。
一方で、漢文訓読の場合はさっきも書いたように、已然形+「ば」で仮定条件を表すようになっていたので、それに従ったとすれば致し方ない、とも言われているよ。
っていうか、もうその頃には混乱していたわけだね・・・。