2017/06/03

今でも境界線

パリ市内を出てシャルル・ド・ゴール空港に行く場合、「ペリフェリク」という環状高速道路を通るのだ。
ここがまさに渋滞ポイントなんだよね。
この環状高速道路の内側がパリ市、外側はパリ郊外(イル・ド・フランス圏だけどパリじゃない。)ということになっているんだよね。
※実際には、ブーローニュのmoriとヴァンセンヌの森もパリ市なので、ちょっとはみ出ているところはあるんだけど(笑)
実は、この環状道路こそが、かつてパリを囲っていた城壁の跡なんだよね。

日本の都市の場合、城郭の周りにはお堀が作られるけど、城下町を囲むような城壁は作られないので、開放的なのだ。
自由に城下町に入れるし、町が発展していけば徐々に市街地を広げていくことができるのだ。
江戸の街がまさにそうで、どんどん拡張していったわけだよね。
明暦の大火の後には、かつては下総国だった隅田川の向こう側(本所・深川)も併合して、巨大な街になったんだよね。
ところが、欧州の都市の多くは、城塞として、街全体が城壁に囲まれていることが多いのだ。
今でも城壁が残っているところは少ないのだけど、かつて城壁で囲まれていた部分を「旧市街」と呼ぶことが多いよ。

パリもまさにそうで、第一次大戦後の1919年から1929年にかけて城壁が取り払われ、その跡地に公園やらスポーツ施設やら新興住宅地やらを整備してらしいのだ。
ちょうど城壁の外縁部に当たるところに環状の高速道路が整備され、それが今でもパリの境界になっているんだ。
この城壁こそがティエールの城壁で、19世紀、再び王制にもどっていたフランスで、ルイ・フィリップがプロイセンやロシアからの侵攻に備えるために築いたものなのだ。
ナポレオンが失脚したのはまさにこの両国が相手だったから、当時のフランスには脅威だったみたい。

この城壁の跡はほとんど残っていないのだけど、地名には残っているよ。
ペリフェリクに面しているところには、「Porte de ~」という地名が多いのだ。
これはそこに城門があったということを示しているんだ。
国際見本市会場があって、世界的に有名な「サロン・デュ・ショコラ」の会場でもある「Porte de Versailles」なんかもそうだよ。
東京でも、江戸城のお堀沿いには「~橋」、「~門」、「~見附」って地名が多いけど、これも江戸城に続く橋、城門、櫓がそこにあったからなんだよね。
虎ノ門の文部科学省の所では外堀の遺構が見られるようになっているよ。

パリはもともとローマ時代のルテティアというガリア人が築いた街、というか村。
最初はノートルダム寺院があるシテ島周辺だったのだ。
それが徐々に拡大していくんだけど、ブルボン王朝によって絶対王政が確立されると、城壁の必要性がなくなってきて、いったんなくなったんだって。
ところが、18世紀のフランス革命直前のころ、パリ市内で商売を行う承認から徴税しようと、もう一度巴里の中心地が城壁で囲まれたのだ。
これがフェルミエー・ジェネローの城壁。
「徴税請負人の壁」ということらしいよ。
今でもパリ市内のこのときの関税徴収所が残っているようなのだ。

で、フランス革命後、もう一回り大きな城壁として作られたのが、最後のティエールの城壁。
これは原点回帰で城塞の防壁なのだ。
でも、第一次世界大戦ではそもそも戦闘方法が大きく変わってしまって、城壁があることにあまり意味がなくなってきたので、取り壊されることとなったんだ。
引き続き歩兵による戦闘がメインだったのでけど、銃器が発達し、射程の長いライフル銃などが実装された結果、騎兵による突撃があまり意味をなさなくなったのだ。
城壁はこの騎兵の突撃に対して有効だったんだけど、それが主役じゃなくなれば、あまり意味がなくなってしまったんだよね。
これも時代の流れ。

でも、そのおかげで、日本の都市のように街を外縁部へと自由に広げていけるようになったのだ。
これが、パリを中心とするイル・ド・フランス圏だよ。
城壁があるうちは、となりの都市とは物理的に隔絶されていたわけで、一つの都市圏とはならないのだけど、壁がなくなって地続きになると、大きな都市圏が形成できるのだ。
パリ自体は山手線の内側より少し広いくらいの、そんなに大きくない街なんだけど、イル・ド・フランス圏で見ると巨大な経済都市になるのだ。
それでも、東京はもっと大きいんだよね・・・。
城壁のような物理的制約がなかったおかげで明治以降もどんどんと都市圏が広がっていったからね。
ま、広いからいいというわけでもないんだけど(笑)

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