2022/11/05

すでにorまだ

「風姿花伝」に由来する有名な世阿弥の言葉で、「秘すれば花」というのがあるのだ。
これは手品なんかをイメージしてもらえればいいんだけど、隠しているからこそきれいに見えるのであって、すべてをさらけ出してしまうと興ざめする、的な意味。
で、ここで言う「秘すれば」というのは、仮定条件ではなくて、確定条件なんだよね。
「もし隠していればきれい」だと、すでにあらが見えてしまっているのだ・・・。
この「秘すれば」は文語の「已然形」なんだよね。
口語の「仮定形」ではないのだ。


中高の古文の授業で習うことだけど、古文の活用は現代文とは異なっていて、古文は、未然・連用・終止・連体・已然・命令で、現代文は、未然・連用・終止・連体・仮定・命令。
つまり、「已然形」と「仮定形」のところが同じような活用語尾になるのに、意味が変わってしまうのだ。
「已然形」には大きく3つの使い方があって、
①助詞「ば」に続いて順接(~なので)、助詞「ども」に続いて逆接(~なのに)
②(四段活用の動詞の場合)完了の助動詞「り」につながる(ただし、「り」は命令形につながるとの説もあり)
③係助詞「こそ」と係り結びをして強調表現になる
だよ。
①がまさに問題で、古文では英語のandやbutみたいに使うんだよね。
逆に、古文で仮定の意味を持たせたいときは、未然形+「ば」にしないといけないのだ。
時代劇で主人公が言う「寄らば切る」とか。
在原業平の和歌でも有名な「なかりせば」のばあいは、「なかり・せ・ば」で、「せ」は過去を表す助動詞「き」の未然形とされるのだ。
「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(古今和歌集・在原業平)
(この世に全く桜がなかったとしたら、春はもっと心穏やかにいられたのに)
ちなみに、「き」の已然形は「しか」で、これは「ども」にしか続かないよ。
「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散り敷く白河の関」(千載和歌集:源三位頼政)
(都ではまだ青葉だったのに、白河の関ではもう紅葉が進んで色づいて派が地面を覆っているよ)

どうも、すでに江戸時代には已然形+「ば」という表現は口語ではあまり使わなくなっていたようで、{~なら」みたいな言い方で仮定表現をしていたみたい。
そして、なぜか漢文の読み下し文の場合、慣行として、仮定表現なのに已然形+「ば」で読むことが多かったのだ。
この辺の混乱と、そもそも仮定条件でも確定条件でも意味が通るような表現が多いこともあって、已然形+「ば」の使い方が廃れていってしまったみたい。
例えば、「物言えば唇寒し秋の風」という松尾芭蕉の俳句だけど、この解釈として、「ストレートに思ったままのことを言うと」ととらえても「ストレートに思ったままのことを言ってしまうと」ととらえても、意味は通ってしまうんだよね。
この句の場合は確定条件で解釈するのが正しいようなんだけど、仮にそのように解釈していなくてもおそらく困ることはないのだ(笑)

そんな流れもあって、明治の教育勅語には文語文法の誤用があるとの指摘があるんだよね。
それは「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」のとおろで、ここは已然形+「ば」で解釈してしまうとまずくて、仮定条件でないとおかしなことになるのだ。
だとすると、正しくは「アラバ」となるべきなんだよね。
一方で、漢文訓読の場合はさっきも書いたように、已然形+「ば」で仮定条件を表すようになっていたので、それに従ったとすれば致し方ない、とも言われているよ。
っていうか、もうその頃には混乱していたわけだね・・・。

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