2023/10/14

因果で因縁

ジャニーズ問題も引き続き炎上しているけど、旧統一教会問題も、いよいよ解散命令かと再燃してきたのだ。
宗教としての教義とか儀式とかについてとやかく言うモノではないんだろうけど、問題は、その宗教団体がいわゆる「霊感商法」のような悪質な活動を行っていることが問題なんだよね。
それが宗教法人法の解散要件に当たるようなものかどうか、というので裁判所の判断が必要なんだよね。
ま、「幸せになる壺」とか「悪運を払うお守り」みたいなのは、「信じる人は救われる」の世界があるにはあるのだけど、それがあまりにも高価なもので、破産したり、多額の借金を背負ったり、生活が破綻したあり、というところまで金を吸い取ろうとすると問題なんだよね。
ま、そこが「程度の問題」で難しいわけ。

程度の差こそあれ、この手のものは歴史的にもいろんな宗教で集金メカニズムで使われてはいるんだよね。
墓地の管理とか永代供養なんかもそうだし、後の宗教改革につながった贖宥状(免罪符)なんかもそう。
神社とかで祈祷をしてもらってお布施を納めたり、各種お守りを授与してもらうのもある意味は近いよね。
おそらく悪質性のポイントは、過度に不安を煽ったり、半ば洗脳していってそうせざるを得ないように追い込んでいくこと。
かつてオウム真理教では、セブンデイズとか呼ばれる合宿に参加させてもうろう状態にして入信させ、全財産を教団に寄付させる、みたいなのをやっていたわけだけど、これはやりすぎってこと。
この壺を買うと幸せになります、はいいとして、買わないと不幸になる、地獄に落ちるなどと脅すのはまずいのだ。
なんか紙一重だけど。

宗教はもともと人の知り得ない、不可知の世界に対する漠然とした不安を払拭するためのツールとして機能してきているのだ。
死んだらどうなるのか、この世界はどのようにできたのか、など。
これに加えて、集団による社会生活が円滑なものとなるような倫理規範を示してきたのも宗教に寄るところが大きいんだよね。
なぜ悪いことをしてはいけないのかにつうて、ゲーム理論などを使って、各自がそう行動する方が最終的には集団にとってプラスになる、なんてのはおそらく証明できるのだけど、それを万人に理解してもらうのはほぼほぼ不可能。
だったら、神様が常にご覧になっていて、悪い子とすると地獄に落ちる、良いことをすれば天国に迎えられる、とした方が受け入れやすい、ということなんだよね。

これと同じようなものが、祈祷であったり、お守りであったりするわけで、物理的には、それによって何らかの効果があるとは証明できないのだけど、気持ちの問題として、そうすると「安心感」を得られる、ということなのだ。
大事なのは、それぞれが心の安定を手に入れることができる、というポジティブな面で機能していること。
キリスト教における教会での懺悔も、あらかじめ神に自分の罪を告白し、許しを請う、ということで、死後地獄に落ちるかもしれないという不安を軽減するのだ。
実は江戸時代以降に出てきた「水子供養」というのもそうで、もともとは東横線の祐天寺駅に名前を残す祐天上人が始めたと言われるシステムで、生まれることなくなくなった胎児、或いは、生まれてもすぐになくなってしまった嬰児たちに、戒名を付けてちゃんと供養をしてあげる、というものだったのだ。

もともと仏教式の供養というのは、使者を敬うものに見えつつ、生者のの中できちんと区切りを付ける、ということが目的なんだよね。
死んでしまってもういない、それを儀式をとして受け入れさせる、というものなのだ。
でも、この水子供養というものができるまでは、七つまでは神のうち、なんていうくらいで、幼くしてなくなるのも当たり前で、ましてや、生まれてもいないような胎児はきちんと供養されていなかったのだ。
でも、親、特に母親にしてみれば大事な我が子であって、その命が失われた、ということなんだよね。
そこで、そうした水子もきちんと供養してあげれば来征に命をつなぐことができる、だから安心してあの世に送ってあげましょう、ということをわからせるのが水子供養の本質。
実は、祐天上人はこれにより女性信者の信仰を多く集め、五代綱吉公の生母の桂昌院やその他大奥の女性は深く帰依していたんだそうだよ。
女性の悩みを救ったわけだよね。

ところが、現代の霊感商法ではこれを逆にして悪用されているんだよね・・・。
あなたが不幸なのは水子をきちんと供養しなかったからたたっているんだ、とかなんとか。
これはむしろ不安を増大させるわけで、それにより心の平穏を欠いて、正常な判断ができにくくなった人をダマして、という構図。
確かに運もあるけど、「運がない」と感じる場合、けっこう自業自得なこともあるわけだけど、多くの人はそれを認めたくないからその原因を外に求めるんだよね。
そういうついてないな、運が悪いな、と感じている人に近づいて、そういう責任転嫁的な自分への甘さをくすぐって、悪い人が近づいてくるわけ。
で、あなたの不運や悪運は呪いや祟りによるものだから、それを祓わないと大変なことになる、と持ちかけるわけだよね。
このとき重要ななのは、全員が引っかかる必要はなくて、百人に声をかけて一人でも引っかかれば、この詐欺的な行為は成立するということ。
けっこう搾り取ればいいだけだから。

こういう極端な例だけ挙げていけば悪質なものは取り締まるべき、とはなるんだけど、厄除けだとか、地鎮祭だとか、おそらく物理的には何も意味をなさない宗教的な行為、しかも、けっこうお金がかかるものが普通な風俗、慣習として世間に受け入れられている中、どこから取り締まるのか、という線引きは実は難しいんだよね。
今回の件はそれの一つのメルクマールにはなるのだ。
ここで一定の基準ができれば、外にも引っかかるところが出てくるんじゃないかな。

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