2024/02/03

100億年の孤独

 仏教には、弥勒菩薩(マイトレーヤ)という仏様がいるのだ。
現在は兜率天で修業中の身だけど、釈迦牟尼の次にブツになることが約束されている「未来仏」。
なんと、釈迦の入滅後56億7千万年後にあらわれるとか!
っていうか、地球が誕生したのが46億年前、地球に原始生命が現れたのが40億年前と考えられているので、これまでの地球の歴史以上の長さののちにやってくるのだ。
100億年単位の話だよ!
その前に太陽の膨張によって地上に人類はいないような気がする・・・。

一応これには計算があって、弥勒菩薩が修業をされている兜率天での寿命は4千年。
兜率天での1日は地上の400年に当たるので、4,000兜率天年×400年/兜率天日×360兜率天日/兜率天年=576,000,000年となって、5億7千6百万年になるのだ。
ところが、途中で記載ミスがあって伝承されたのか、一桁上がって7と6が入れ替わり、56億7千万年になったらしい。
インド人はそういう細かいところは気にしないんだよ(笑)
気の遠くなるような永遠の時間の果てにやってくる、というイメージなんだろうなぁ。

もともと、古代インドの伝統的なコンセプトとして、輪廻転生(サンサーラ)というのがあって、今の人生を終えても次にまた別の生命として生まれ変わる、今の人生の前も別の生命として生を全うしていて、それが繰り返される、とされているのだ。
はじまりがどこかはよくわからないけど、前世と来世が今世とセットになっているわけだよね。
でも、どの世界にどんな生命で生まれて来ようとも、六道(天・修羅・人・地獄・餓鬼・畜生)はすべて苦しみのある世界であって、そこから抜け出すこと(=解脱)でのみ苦しみから解放される、ということになっているんだよね。
そのために修業する必要があって、抜け出せた人は悟りを開いた人(=仏陀)になるのわけ。
でも、実はこの輪廻転生の考え方って、おそらく「死」というものへの恐怖、漠然とした不安の裏返しなのだ。

生命活動の終わり=死であるならば、死んだらそこで終わり、その先は何もないわけ。
そもそも意識が途切れるので、死は無になることなのだ。
これが「怖い」わけで、死んだらそこでぷっつりと何もかもが切れてしまって、自分というものが無になる、これが受け入れがたい。
なんとか死んでから先も自分というものが保持できないか。
そんな思想から、生と死を繰り返すみたいなアイデアが出てきているはず。
であれば、このサイクルから抜け出すことは恐怖で、死を避け、生に執着すればするほどこの輪廻転生サイクルを意識してしまって、出ることはできないのだ。
だからこそ、その執着を捨て、すべて、すなわち、無になることを受け入れないと、解脱はできない、という考え方にもなるのだ。

で、いつかは抜け出したいんだけど、それはまだいまではない、みたいになるわけで。
救済が来ることが分かっているからこそ苦しみに耐えられる、でも、その過程で生も謳歌する、ということ。
そうなると、ゴールは設定するんだけど、それは意識の外にあるような遠くにある方が都合が良いわけで、こういう途方もない数字、現実的に想像できないような遠い未来に設定してしまうんだよね。
最終的にはそこで救われることが確定しているという安心感と、今すぐに無に帰するわけではないというもうひとつの安心感を同時に得たいわけなのだ。
こういう考え方をしてしまうことこそが煩悩の塊なのかもだけど。

釈迦を中心とした原始仏教集団ができる前からこの思想は古代インドにあったらしいので、相当古いというか、人間の根源的なところに根差している考え方かもしれないのだ。
でも、もう少し時代が変わっていると、もっと近くに救済があってほしい、と思う人々が増えてくるのだ。
それはきっと戦乱とか飢饉とか社会不安が大きくなって、現世の苦しみがより耐え難いものになってきて、すぐにでも救いが欲しい、ということなんだよね。
そうして出てくるのが浄土思想。
阿弥陀如来の主催する西方浄土に生まれ変わって、弥陀の導きで解脱したい、というもの。
これは末法思想が広まってからのことのようなので、やはり社会不安が増大している時期に出てきた考え方だと思うんだよね。

浄土思想では、弥勒仏の到来を待つことなく、ただひたすら阿弥陀仏にすがって、他力本願で極楽浄土を目指すのだ。
今世は何とか我慢するにしても、もう我慢できない、次は苦しみから逃れたいう、という切なる願いだよね。
しかも、ポイントは、自分でどうこうできるレベルを越えているので、ひたすら弥陀の力にすがる、ということなのだ。
そこまで追い詰められていて、ただただ救われたいと願うのみ、もうほかにしようがない、というくらい。
その最たるものが「補陀落渡海」で、南方にある浄土、「補陀落」に行くため、南方に臨む海岸から死出の船旅に出るのだ・・・。
今の人生を生き切って弥陀に巣くってもらうのも待ちきれない、ということなんだよね。

さて、令和の今も社会には大きな不安があるよね。
特に今年になってすぐにいろんなことが起きているのだ。
こういう時代に心の安寧を保つためにはどうするのがよいのか。
気長に待つか、ちょっとがまんするか、もうがまんできないとすぐに逃げ出すか、考えどころだよね。

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