みこみこハウス
皇位継承順位第二位の悠仁親王が来春から筑波大に進学あそばされることが決まったようなのだ。
新学制下では原則として元官立の学習院ということになっていたんだけど、秋篠宮家ではその慣例には習わず、内親王お二人は大学から国際基督教大学(ICU)に進学されたし、今回の悠仁親王に至ったっては、幼稚園・小学校・中学校はお茶の水女子大付属、高校は筑波大付属で徹底的に学習院を避けているんだよね。
もともと学習院という学校は、幕末に公家の師弟の教育機関として京都に創設されたんだよね。
江戸時代最後の天皇となる孝明天皇より、「学びて時にこれを習う」という論語の一文から「学習院」という勅額が下賜され、学習院と名乗るようになるのだ。
それが御一新後に東京に移ってきて、皇族・家族の教育機関として宮内省管轄の官立学校になるのだ。
宮内省が解体された戦後は私立学校として再出発するんだけど、ずっと皇室との関係は続いてたんだよね。
話はそれたけど、この悠仁親王のお住まいは赤坂御用地内の秋篠宮邸。
本来は皇位継承順位第一位の人物は「皇太子」として呼ばれ、お住まいは「東宮御所」となるんだよね。
今回は今上天皇の弟にあたるので「皇太弟」と呼ばれてもおかしくないんだけど、令和の譲位の際に、そういう呼び方ではなく、「皇嗣」と呼ぶことになったんだよね。
これは皇室典範の規定の中では、第4条で「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」としていて、皇位継承順位第一位は「皇嗣」にしているのだ。
下って第8条前段で「皇嗣たる皇子を皇太子という」として、それが天皇の息子に当たる場合は「皇太子」と呼ぶ、とするとともに、後段では「皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という」として、子世代に皇嗣がいなくて孫世代まで行ってしまった場合は「皇太孫」と呼ぶ、と定めているんだ。
で、ここで問題があって、弟が皇嗣になる場合が法律上は想定されてないんだよね・・・。
むかしからよくあることなので俗に「皇太弟」という呼び名はあるのだけど、法律上定めていないので使えないようなのだ・・・。
珍しくないことだからこの際足したらいいのに、とは思うけど、そうもいかなかったのかな?
これがいろんなところにはねていて、皇太子のことは「東宮」ともいうので、天皇のお世話をする侍従職に対比して、皇太子のお世話をする東宮職というのがあったわけだけど、それもいまは「皇嗣職」となっているのだ。
とはいえ、宮内庁の内部組織を規定している宮内庁法には「東宮職を置く」規定しかなかったので、生前退位の手続きを定めた「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」により附則を追加し、「皇嗣職を置く」規定を追加したんだよ。
さらに、皇太子でないから東宮御所とは呼べず、かといって、「皇嗣御所」とかいうのも変なので、皇嗣になる前からの呼称の秋篠宮邸という従前からの呼び方を継続しているのだ。
ただし、お住まいの呼称はけっこう流動的で、譲位後すぐは皇居に移れなかったので、赤坂御用地内の東宮御所を「赤坂御所」と名前を変えて使っていたよね。
今は上皇・上皇后両陛下のお住まいにするためにバリアフリー化などの必要な改修がなされて、「仙洞御所」となっているよ。
ちなみに「仙洞」というのは仙人の住処のことだけど、上皇・法皇の御所のことを「仙洞御所」と呼ぶんだって。
皇太子を東宮と呼ぶのは中国の風習にしたがっているのだけど、伝統的な中国の応急の場合、「君子南面」なので、皇帝の宮殿は南向きに作る、その東側に皇太子の宮殿たる東宮を作る、となっているのだ。
五行思想では「東」は「青龍」であり「春」であるので、「東宮」は「春宮」とも書くのだ。
確かに赤坂御用地は皇居=江戸城から見て東に位置しているよね。
でも、今の御所は実は南向きではなく、東向きに建てられているのだ。
明治になって最初に宮殿を造営したときは伝統にならって南向きで作ったんだけど、今の御所を作る際、無理やり南向きにして設計をゆがめるより、きちんとした宮殿を作りたいという設計者の思いがあり、昭和天皇の了解も得て南向きでない宮殿にしたそうだよ。
さすがに赤坂御用地のほかに新たに皇室のための用地を用意するわけにはいかないから、皇嗣に当たる人の邸宅は皇居から見て東にはあり続けるだろうけどね。
ちなみに、江戸時代は、皇太子も内裏の中に住むことが通例になっていて、御所とは別に東宮御所を設けることはなかったようなのだ。
皇室財政が相当厳しかったというのもあるだろうけど。
で、京都御所では、儀式などに使う正殿の裏手(北側)に天皇の日常の居所である御常御殿というのがあるのだけど、皇太子の住まいはその北西に位置する建屋に住まわ荒れていたようなので、もはや「東宮」ではなかったんだよね。
むしろ、せっかく御所を新たに東京で造営するからしっかり東宮は御所の東に作りたいと思ったのではないかと考えるんだ。
ちょうど江戸城のから見てすぐ東側には旧紀州藩の上屋敷があって用地としても使いやすかったしね。
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