2009/03/29

アン&ミツ

昨日、上野に行ったときに「みはし」でお土産用のあんみつを買ったのだ♪
江戸時代にはこのあたりは寛永寺の総門の黒門があって、そこに流れている川に3本の橋がかかっていたから「みはし」というのだ。
そのころから寛永寺の参詣客に甘味を提供していたんだよね。
で、ボクなんかはそのころからあんみつは名物だったのかなぁ、なんてなんとなく思っていたんだけど、それがどうも違うらしいのだ!

なんと、あんみつが生まれたのは昭和になってから。
みつ豆でさえ20世紀にならないと登場しないんだって。
おどろきだねぇ。
材料的には寒天もあんこもミツも江戸時代にはあったものだけど、そういう食べ方はしていなかったようなのだ。
甘酒もむかしは冷やして飲んでいて、今みたいに温かいものもなかったんだよね。
すると、今の甘味処とはかなり品揃えが違うかも。
一緒なのは緑茶と団子くらいかな?

みつ豆の先祖と考えられている江戸時代のお菓子は、すあまや団子を作る上新粉を練って舟形にしたものに赤エンドウ豆をのせてミツをかけた子ども向けのお菓子だったんだそうだよ。
豆をいやがる人もいるけど、すでにこの時点でセットなのだ。
えも、ミツの甘い味にちょっと塩気のある豆はおいしいよね。
甘さが引き立つし、さっぱりするのだ。
きっと最初から味のアクセントとして使われているんだろうね。

明治も30年代になると、いもようかんでおなじみの浅草「舟和」が、大人用の甘味として、銀のお皿に寒天と果物、赤エンドウ豆をもってミツをかけたみつ豆を売り出したのだ。
寒天の透明感が涼味として評判を得て、夏のお菓子の定番となって広まっていったんだそうだよ。
今でも季語では「夏」になるらしいのだ。
ボクなんかは寒天と豆だけの「豆寒」からみつ豆ができたんだと思っていたんだけど、実際は逆でみつ豆から果物などを抜いてすっきりさせた甘味として豆寒ができたようなのだ。

で、みつ豆が広まっていくと、そこにはいろいろバリエーションができていったみたい。
今でもアイスクリームがのったクリームみつ豆、白玉の入った白玉みつ豆などがあるけど、このみつ豆にあんこを足した人が出てきたのだ。
その最初は、銀座のお汁粉屋「若松」で、1930年と言われているのだ。
やっぱり、意外に新しい食べ物なんだよね。
で、このあんみつにもみつ豆と同じようにバリエーションがさらにできて、クリームあんみつ、白玉あんみつとさらに拡大していくことになるのだ。

最近はマンゴーをのせたり、抹茶アイスをのせたり、それこそ多種多様なものがあるよね。
ミツと寒天・豆が共通で、そこにあんこが入るか、他のトッピングがあるかで変わってくるのだ。
ミツも白蜜と黒蜜があるし、あんこもこしあんと粒あんがあるし、トッピング以外でもけっこう変わってくるよ。
ボクは黒蜜+こしあんで、求肥が入っているのが好きなのだ(^o^)/

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