2019/04/06

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いよいよ新元号「令和」が発表されたのだ。
個人的な乾燥はともかく、慣れるまでは少し違和感はあるよね。
これは「平成」の時もそうだったから、仕方ない話だけど。
難癖みたいなのは別として、けっこう前向きな評価が多いよね。

この「令和」、確認されている中では史上初の「国書」を典拠とするもの。
これまでは、漢籍を典拠とする場合が多く、実際、「平成」を選ぶ際もその大原則に則っていたんだけど、今回は「万葉集」からとられたのだ。
ちなみに、ここで留保がついているのは、初期の頃の元号は根拠・典拠がよくわからないものも多いから(笑)
元号が使われ始めた飛鳥時代から奈良時代初期なんかは非常にシンプルというか牧歌的で、例えば、穴門(あなと)の国(現在の山口県)から白い生地が朝廷に献上されたから「白雉(はくち)」(最初の元号の「大化」の次)、縁起の良い雲が見えたから「慶雲」(「大宝」の次)、瑞亀(アルビノの白い亀?)が元正天皇即位に当たって献上されたので「霊亀(れいき)」などなど。

時代が下っていくと、文章(もんじょう)博士と呼ばれる専門職貴族が勧申(かんじん)という形で考案したものを上申していたのだ。
やはり複数案をあげて選んでもらっていたようだよ。
このように形式化してくると、その典拠もわりとしっかりと記録に残るんだけど、その前の話だと、よくわからないんだよね(笑)
一説には、日本書紀などの正史からとったものもあったのではないか、なんて言われているけど、不明な点も多いみたい。

今回の「令和」については、万葉集巻の5の「梅花の歌三十二首併せて序」からとられた言葉だよ。
万葉集の場合は万葉仮名という独特の表記表で書かれていて、和歌本体は漢語+表音文字としての漢字(万葉仮名)が入り乱れているんだけど、序文はすべて漢文。
今回の場合は、「于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。」(読み下し「時ニ、初春ノ令月ニシテ、気淑(よ)ク風和(やはら)ギ、梅ハ鏡前ノ粉(こ)ヲ披(ひら)キ、蘭ハ珮後(はいご)ノ香(かう)ヲ薫(かをら)ス」)の「令」と「和」だよ。
奈良時代には花と言えば梅を指していて、日本人に最も愛されていた花だったのだ。
特に、まだ寒い時期から咲き始め、その色と香りで春を告げるところが好まれていたんだよね。
今回の元号にも新たな平和の時代の幕開けの意味が込められているようなのだ。

この三十二首の和歌というのは、太宰帥(だざいのそち)として太宰府に下向していた大伴旅人の邸宅での宴会で詠まれた歌と言われているんだよね。
ちょうど同じ頃、山上憶良は筑前守として同じく下向していて、その場に参加していたようなのだ。
旅人の歌は、「わが苑に梅の花散る久方の天より雪の流れくるかも(5-822)」、憶良の歌は、「春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや はる日暮らさむ(5-818)」だよ。
旅人の歌では梅の作事気でありながら雪の降る情景が歌われているし、憶良の歌では、春に先駆けて咲く梅の花を愛でる様が詠まれているのだ。
こういう歌が三十二首並んでいるところの序文からとられたわけで、太宰に左遷されていた大伴旅人の主催とは言え、春の訪れを言祝ぐ場の歌を並べた箇所の序文なので、幸先がいいように思うのだ。

で、ついでに、御一新後、一世一元の制になってからの元号の出典も簡単に振り返るよ。
記憶に新しい「平成」は、「史記」五帝本紀の「帝舜」にある「内平外成(うちたいらかにそとなる)」や「書経」の偽古文尚書の大禹謨にある「地平天成(ちたいらかにてんなる)」からとったとされているのだ。
「帝舜」は古代中国五帝の一人の「舜」のことで、後に夏王朝を創始する禹を採用した聖君として知られる人物。
つまり、実在性もあやしい夏王朝ができる前の時代の神話的世界の物語なのだ。
偽古文尚書というのは、古文尚書の偽物なのでその名前があるんだけど、古文尚書は孔子の旧宅から発見された古典籍のうち先秦時代に使われていた蝌蚪文字(かともじ)という字で書かれた尚書のことで、これ自体は散逸してしまって現代に伝わっていないのだ。
ところが、その古文尚書を見つけたとして、東晋時代(4世紀初頭)に朝廷に献上されたものがあって、それが偽古文尚書。
古文尚書ではないとわかってはいるのだけど、それ自体古いものだし、貴重な文献として構成に長く伝えられているものだよ。

史上場最も長く使われた元号である「昭和」は、「書経」堯典の「百姓昭明、協和萬邦」(読み下し「百姓(ひゃくせい)昭明ニシテ、萬邦(ばんぽう)ヲ協和ス」)から来ているのだ。
実は、全く同じ文章から「明和」という元号が江戸時代中期に制定されているんだよね。
この後壮絶な戦争に突入していくとは思えないのだけど、国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味を込めたんだって。
ちょうど「五族協和」とか言っている時代だからね・・・。
ちなみに、書経は中国古代の歴史書だけど、その中でも堯典は最も古い時代に対応する部分だよ。

その前の「大正」は、「易経」彖伝(たんでん)の「臨」卦の「大亨以正、天之道也」(読み下し「大イニ亨(とほ)リテ以テ正シキハ、天ノ道ナリ」)から。
当たるも八卦、当たらぬも八卦の、古代中国の卜辞(つまりは占い)のテキストである易経の解説書である彖伝からとられているのだ。
彖伝は六十四卦の卦辞(その卦の意味するもの)の注釈書のこと。
文庫本易経を読むとわかるけど、易経本文の解説として、「彖伝に曰く・・・」とか「象伝(しょうでん)に曰く・・・」と注釈書の記述も一緒になっているのだ。
ちなみに「臨」の卦は、「兌下坤上」というもので、「¦¦¦¦||」を右90度回転させたものだよ(笑)
これは明治帝から引き継いで次代の天皇も正しく治める、と言う意味が込められてそうなのだ。

最後に「明治」。
「大正」と同じく易経を典拠としていて、そのうち、天地雷風水火山沢の8つの卦(小成八卦)の説明をしている「周易説卦伝」という書物からとられているのだ。
「聖人南面而聴天下、嚮明而治」(読み下し「聖人南面シテ天下ヲ聴キ、明ニ嚮(むか)ヒテ治ム」)より。
古代中国では皇帝は時空の運行を司るものとされていて、極星(北半球では北極星)がそのシンボル。
自らは中心に座してそのまわりを星々が巡る、というイメージだったのだ。
ここから、支配者は北極星が他の星々を見るのと同様に、自らが北にあって南を向く、ということになっていたんだよね。
そうしてどっしりと南面して向かっていれば自ずと天下は明るく治まる、ということなのだ。
これも新たな時代の天皇の役割を意味しているんだろうね。

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