2021/08/07

お気持ちだけ

今年も原爆の日がやってきたのだ。
なんだか平和ぼけしている日本だけど、つい80年ほど前は太平洋戦争のまっただ中。
なかなか実感はわかないけど、報道なで慰霊祭を見るとやっぱりそこに思いが至るよね。
そういう意味で、こういうのは続けていく音に意味があるんだなぁ、と思うよ。
この現場卯の日の慰霊祭の象徴的な存在は千羽鶴。
なんだか平和の象徴的な扱いを受けているよね。
そして、なぜか最近では、大規模災害で被災した人たちに千羽鶴を送る、なんてことが行われているのだ・・・。
すでにいろんなところで言われているけど、気持ちはありがたいものの、迷惑でしかないんだよね。
けっこう場所とる割に何の役に立つでもないし、かといって気持ちがこもっているからむげに捨てるわけにもいかないし。
着古した衣料とか消費期限の短い食品など以上に困った贈り物のようだね。

もともとは、鶴は長寿の象徴で、長寿祈願をする際に折り鶴をいくつか糸でつなげて神社に奉納していたらしいのだ。
これは絵馬など奉納するのと同じ。
1年たったところなどの節目で、お札、お守り、破魔矢、熊手などと同様に「お焚き上げ」されるのだ。
これはひとつの日本の民俗信仰の一形態だよね。
江戸時代にはすでにあったことらしいよ。
昭和初期、戦前くらいになると、糸をお通した折り鶴が「千羽鶴」と呼ばれるようになり、女児の技芸上達などの祈願として女性の信仰を集めた淡島神や鬼子母神に捧げられるようになっていたんだって。
これについても、習字がうまくなるようにと筆を奉納したりするのと同じで、そんなおかしなことではないよね。

では、なぜこれが平和の象徴になっていくのか。
そこには、原爆が大きく関わっていたのだ。
広島の平和記念公園内にある「原爆の子の像」のモデルになった原爆被爆者の少女、佐々木禎子さんが、自分の健康長寿祈願のために千羽鶴を折ったことに由来しているんだよね。
ここまでの話では伝統的な扱いなのだ。
自身は10年ほどたった昭和30年10月になくなってしまうんだけど、子の少女の死を悼み、また、原爆で亡くなったすべての子供たちを慰霊するため、千羽鶴が捧げられるようになるんだ。
これで原爆の日の慰霊祭のシンボル的な飾り物となっていくんだよね。
ここまではやっぱり「長く生きたい」という生への渇望が込められているのだ。

しかしながら、時間が経過していくと、もともとの千羽鶴が折られていた動機は見失われ、平和記念であったり、災害に遭って亡くなった人たちへの慰霊といった意味にすり替わっていくのだ。
この手の話は民俗学ではよく出てくることではあるんだけど、それが現代に生きている事例としては実は貴重なのかも、とも思うんだよね。
今でも、千羽鶴は、健康や病気平癒の祈願の意味は残っていて、入院しているお友達に千羽鶴を折ろうなんてこともやっているので、まるまる意味が失われたわけではなく、新たな意味合い、属性が付加されたとみる方がいいんだろうね。
こういうことが起こるには、荒唐無稽に見えるけど、他の要因が心理的なものとして影響していることがあるのだ。

ひとつは、折り鶴の形。
鶴とは言うけど、正直それが何か知らない人が見たら鶴とは言わないよね。
むしろ、よく見る鳥としたら、鳩の方が近い気がするのだ。
これがポイントで、鳩は平和の象徴としても扱われる鳥なので、その形状の類似性から、鳩に見えなくもない折り鶴には平和の象徴的な意味合いは付加しやすいと考えられるんだよね。
鳩が平和の象徴になったのはノアの箱舟の伝説に由来するところが大きいけど、むかしのオリンピックの開会式ではよく鳩を飛ばしたりしていて、鳩が平和の象徴であることは日本にもよく浸透しているし、広島の平和記念式典では実際に今でも鳩を放しているよね(長崎の平和祈念式典では「千羽鶴」という歌の合唱があるよ!)。
こういうのはイメージの重ね合わせを考える上で大きいと推測されるよ。

また、「千」というのにも呪術的な響きがあって、武蔵坊弁慶の千本刀の伝説や戦時中の千人針など、「千」という大量のものを集めることで大願成就を目指すんだよね。
なので、昭和初期に奉納されていた折り鶴も「千羽鶴」と呼ばれるようになったんだと思うけど、「大願成就」と結びついているというのがポイント。
個人の問題ではそれは健康や病気平癒でも、平和祈念式典のような場で出てくる「千羽鶴」の「大願成就」とは何か、と考えると、やっぱり「世界平和」みたいな大きな話になるよね。
なので、「大願成就」という「千」に付属した属性の故に、かってに「千羽鶴」が「世界平和」のためのものみたいに受け取られて、さらにそれが逆転して「平和の象徴」になるのだ。
「世界平和」を祈念するために「千羽鶴」を折るのならまだストレートだけど、なぜか「世界平和」を象徴するようなシンボルになってしまっているんだよね。
こういう因果の逆転もよくあること。

でも、やはり「世界平和」というのはあまりにも大き過ぎる目標で、身近なところでの「平和」まで下ってくるようなのだ。
だからこし、復興を祈念し、災害前の平和を取り戻せるようにとついつい「千羽鶴」を送ってしまうんだよね。
「大願成就」を目指すという意味において「千羽鶴」を折ることはまだいいんだけど、それは本来は神社などに奉納すべきであって、被災地に送るものではないのだ。
最近は報道されるようになったこともあって被災直後に千羽鶴が届くことはないようだけど、気持ちは気持ちとして大切にして、送り先は気をつけないといけないね。

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