2021/09/11

すきまにつけこむ

 コロナ禍で家に引きこもっているから、心を病む人が増えているようなのだ。
特に一人暮らしの学生さんや若手の社会人など。
新たなコミュニティに溶け込もうとするタイミングでのステイホームで、孤独感が高まっているようなのだ。
特に、進学や就職で引っ越しをした場合なんかは、身近に知り合いもいないし、けっこうきついみたい。
ま、今はオンラインでのコミュニケーション・ツールもかなり充実しているのでさみしさは紛らわせる子tができると思うんだけど、それでも、新しい環境に対する不安はあって、かつ、その環境の中に直接飛び込めないから解消もできないんだよね。
あんまりよく知らない同級生や同僚、先輩とはオンラインだけでは表面的なやりとりしかできないだろうし。

そんなときに気をつけたいのが、こういう「心のすきま」につけこむ悪質なビジネス。
むかしから「運気がよくなるペンダント」、「富を呼び込む壺」などなどあやしい品々はあわけで、普段なら敬啓にはだまされないんだけど、不安が高まっていて正常な判断ができない状態だと、「わらにもすがる思い」で飛びついちゃうのだ。
そして、よくよく認識しておくべき琴は、この手の悪質なやつを仕掛ける側からすれば、百発百中である必要はなく、100人に一人でもカモを見つけられればそれでいいんだよね。
なので、まわりにいる冷静な人たちから見れば「なんでそんなのに」と思うようなものであっても、敵も然る者で不安をあおって正常な判断をしにくくさせる手法は心得ているので、だまされちゃう人も出てくるわけ。

で、詐欺とまではいかなくても、大なり小なりカモにされている場合はあるんだよね。
これは身を持ち崩すほどの被害はないんだけど、「ぼったくり」程度には被害を受けているようなもの。
効果があるかどうかよくわからないアロマやパワーストーンにそこそこお金を払ってしまうなどなど。
そういう場合は、「スピリチュアル」というキーワードがあるのだ。
マスコミがあおっていることもあるのが残念なんだけど・・・。

もともと、「スピリチュアル」というのは、肉体の世界ではなく、精神的、霊的な世界に属することを指すような形容詞。
西洋世界では古代から二元論的な世界の解釈が行われていて、ユダヤ教が元々魂と肉体を分けて考えていたのもあって、キリスト教にもそういう二元論的なとらえ方が浸透しているのだ。
そこで、身体的な外部から観察可能な部分と、それとは逆に、精神的な害府から観察不可能な部分という概念が出てきて、この精神的な部分が「スピリチュアル」の世界になるわけ。

世界保健機関(WHO)が定義するように、人間の健康は心身の健全な状態を指すわけで、身体・肉体だけでなく、心・精神も健全であることが大事なのだ。
で、古代からこの部分をケアしてきたのが宗教やまじないで、不安を取り除くような機能を持ってきたのだ。
お祓いとか祈祷、お守りなどなどがそれ。
社会的に認められたシステムがありさえすれば、あとは「信じるものは救われる」の言葉どおりなわけ。
不安というのは気の持ちようだから。

ところが、近代になって宗教の力の限界が見えてくると、そこまで「盲目的」にはすがれなくなってきたのだ・・・。
特に「科学的根拠がない」とか合理主義的な考えが合わさると、まじないとかって意味のないものと見なされてしまうんだよね。
信じるからこそ救われていたのに、信じ切れないから救われないのだ。
そんなすきまに入り込んできているのが「スピリチュアル」。
多くの場合、現代の科学では解明できていない「超常的な力」とか科学の言葉だけ借りた「エセ科学」の理論により解決される、みたいなスタイルで、宗教とはまた違う、という体をとることが多いよ。
それがオーラとかパワーストーン、レメディ/ホメオパシーなどなどのスピリチュアル・ビジネス。

宗教やまじないは社会的な背景があって、みんながそう信じているから効果があるんだけど、こういうのはそういうのがないので、以外と「お金を出すこと」自体が「きっと効果がある」と信じる根拠になることもあるのだ。
これだけ払ったんだから効くでしょ、ということなんだけど、実は本末転倒なんだよね・・・。
でも、現実的にはそれがよりどころになってしまって、かつ、不安が完全には払拭しきれなくて、ずるずるとはまっていってしまうのだ。
だます方はそういうはめる手法も心得ているわけだけどね。

というわけで、趣味・趣向の範囲で占いとか、パワースポットにはまるのはよいのだけど、高価なものには気をつけなきゃなんだよね。
不安なときに全く見ず知らずの人から優しい言葉をかけられたりするとふらふらっと行っちゃうものだけど、ちょっと一歩立ち止まって考えるべきなんだよね。

0 件のコメント: