2023/11/18

反省してまーす

 タカラジェンヌのいじめの問題で、運営側が調査結果を会見で発表したのだけど、案の定というか、やっぱり炎上したのだ。
そもそもやる気なさそうだったけど、「いじめはなかった」というのは終始言い訳するような形だったからね。
そりゃあ、反菅感情を抱かれるよ。
おそらく、後世に語り継がれる「失敗謝罪会見」の例のひとつになってしまったね。

欧米式だと、「謝罪する」=「自らの非を認める」で、会見でもなんでも謝ってしまうとその時点で賠償することをコミットすることになるので、絶対に謝らないんだよね。
それはそういう文化だから仕方ない。
そもそも基本的にもめごとは司法で判断して決着させる、というのが基本の人たちだから。
訴訟する、ということに躊躇がないし、下手に和解などせず、自らの正当性を主張するんだよね。
で、バックグラウンドがそうであればいいわけだけど、日本は違うのだ。

日本の場合、一般的にさいばんいなる、ということ自体がハードルが高いんだよね。
訴訟を抱えている、というのがネガティブに受け取られるのだ。
しかも、民事でも刑事でも裁判には数年かかるのが通例なので、できるだけ訴訟を避け、調停に臨んで和解・示談を目指すわけ。
その意味では、裁判で白黒つけることが目的ではないので、いかに誠意を見せて少しでも自分に有利なように和解・示談をまとめていくか、という方が大事。
基本的には和解でも示談でもお互いに歩み寄るわけだけど、謝罪会見が必要な場合は往々にして自分の方が悪いと思われているわけで。
ここで「自分は悪くない」という態度をとるのは日本の文化の中では「悪手」にしかならにのだ。

多くの失敗謝罪会見はそうなのだけど、ぼうとう頭を下げてすぐに「言い訳」を始めてしまうんだよね。
そうすると、形式上謝ってはいるけど、けっきょく悪いとは思っていないんだな、形ばかりの反省・謝罪なんだな、と受け取られ、かえって印象が悪くなるのだ。
今回の宝塚の件についても、「こういう不幸な事態が発生したことの責任を運営側としても強く感じており、今後二度とこうしたことが起きないよう最善の努力をしていきたい」といった話から始めるべきだったわけ。
そのうえで、「第三者により内部調査をした結果、かならずしもいじめがあったのかどうかは明確に確認できなかったが、実際にそこまで悩んでいた生徒がいたことを重く受け止め、〇〇など対応策を講じるとともに、さらなる対応策についても検討していきたい」みたいに続けないといけないのだ。
「いじめは確認できなかった」とだけ言うと、運営側には非はない、と開き直っているようにしか見えないからね。
っていうか、本心では「自分は悪くない」と思っていて、それが前面に出てしまっているのだろうけど。

こういうのは組織の危機管理の一環で、リスク・コミュニケーションという分野なんだよね。
そういうのが得意なコンサルもいるんだけどなぁ。
阪急ほどの大手の会社ならそういう専門スキルを持った部署もあるだろうに。
例えば、欧米式の「決して非を認めない謝罪会見」でも、まず頭を下げて、「(自分に非はないんだけど)このような形で関係各所に御心配・ご迷惑をおかけしたことについては申し訳なく思っています」と、謝罪する中身をうまくすり替えるのだ。
やっぱり何かトラブルや不祥事が起きている中で、開き直っているように見えるのは得策ではない、ということなんだよね。

そういう意味では、自分は悪くないという説明に終始するような会見だと、スノボの國母選手の「反省してまーす」という受け答えと大して変わらないことになるのだ・・・。
で、突っ込まれると逆切れして「ち、うるせーな」となるわけで。
少なくとも人がなくなっているんだし、もうちょっとやりようがあったなんじゃないかとは思う。
ま、後からだから言えることかもしれないけど。

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