2019/08/24

神州一

日本料理というとどうしても醤油のイメージだけど、実は醤油が普及したのは江戸時代。
すなわち、醤油ベースの味付けは江戸時代以降にできたものなのだ。
それまでの調味料の主流は、塩、煎り酒(酒で梅肉をといて煮詰めたもの)、そして、味噌。
味噌は味噌で、「味噌汁」という形で家庭の和食には欠くべからざる存在だよね。
醤油が普及するまでは、うまみ成分であるアミノ酸を含む調味料は味噌のみ、というわけで、非常に重要なものだったのだ。
その味噌を造るときに副産物でできる「上澄み」が「たまり」で、これが非常に美味なので、これを液体等魅了として生産できるようにしたのが醤油の製法なのだ。
なので、起源をたどれば、醤油も味噌から派生したものなんだよね。

味噌が大陸から伝わったものなのか、日本で独自に作り出されたのかは諸説あるようだけど、文献に最初に登場するのは平安時代。
その頃の味噌は豆の形の残るもので、調味料ではなくて、そのまま「おかず」として食べられていたようなのだ。
中国から伝来した「塩辛納豆」に近いもの。
豆に塩分を足して発酵させたものだよ。
塩辛納豆の場合はそれを更に乾燥させるんだけど、平安時代に食べられていた「未醤(みしょう)」はもう少し柔らかい、乾燥させていないものだったっぽいのだ。
これは、同時期に調味料として伝わった「醤(ひしお)」の製法と混ざって医るっぽいんだよね。
「醤」は、肉や魚を塩と麹菌で発酵させて作られる液体調味料で、かなりどろっとしたもの。
日本では魚醤である秋田のしょっつるや石川のいしるが有名だよね。
で、麦、米、豆などを原料にして作られるのが穀醤。
通常は長期間発酵させて原料の原型がなくなるくらいまでどろっとさせるんだけど、塩辛納豆との折衷で豆の形が残る状態で食べ始めたのが日本の味噌の始まりではないかと思うのだ。
そういう意味では、中国伝来でもあるし、日本特に「独自発展」させた日本発祥のものでもあるかもしれないよね。
「未醤」というのみお、まだ「醤」になりきれないうち、という意味である可能性も高いのだ。
でも、そうすると、実は江戸時代の「たまり」から「醤油」への転換は原点回帰でもあるんだね。

で、最初は豆を主要な原料にして、豆の形が残る状態で発酵食品としておかずになっていたようなんだけど、鎌倉時代に合って中国から「すり鉢」が伝わると、これをすりつぶして湯に溶かし、汁物にされるようになったのだ。
これが味噌汁の始まり。
当初は味噌自体がまだ貴重なものなので、基本は武家や公家の食事にしか出てこなかったんだけど、室町時代になって農家で自家製味噌が造られるようになると、庶民の食卓にも上るようになるのだ。
このころ、使用目的によって味噌も発達し、保存食(陣中食)に使われる玉状に丸めたもの(そのままかじたり、削って湯に溶かしたりする携帯食)、湯に溶かしてしるにするいわゆる味噌、そのままおかずとして食べる味噌(金山寺味噌や朴葉味噌のようなもの)などなどバリエーションも増えてくるのだ。
そして、原料もいろいろ種類が増えてきて、古来からの豆味噌だけでなく、麦味噌、米味噌も生まれ、さらに、それをブレンドする合わせ味噌も。
こうして当時の日本料理は味噌の味付けで形成されていくのだ。

日本料理では一汁一菜とか一汁三菜とかの形式が存在するけど、汁物がついているのが基本。
そして、その汁物はたいてい味噌汁なのだ。
やっぱりそれだけ深く浸透していたんだよね。
江戸時代に醤油が広まっても醤油ベースの汁物に置き換わることがなかったのだから、その深さはすごいものだよね。
日本人にとってソウルフードになっているのだ。

一方で、伝統的な日本食である、漬け物と味噌汁とごはんという形式だと、塩分と炭水化物の取り過ぎになるんだよね・・・。
洋食の普及もあいまって毎日のように食べる、というものではなくなってきたのも事実。
でもでも、「減塩」タイプなんてのがあって、それが売れているんだから、まったく捨てきることもできないし、やっぱり食べるとほっとするものでもあるんだよね。
伝統は伝統としてしっかりと残していきたいものなのだ。

0 件のコメント: