2015/08/01

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子供の夏休みの宿題の関係で、ということで、職場の人から、東京近郊で「埴輪」が見られる博物館でいいところがないか、と質問を受けたのだ。
とりあえずアクセスの良さから上野の東京国立博物館でいいんじゃないですか?、と答えたんだけど、千葉県佐倉の国立歴史民俗博物館まで行くとさらにいろいろと見られるんだよね。
一緒に古墳散策もするなら、東急多摩川駅の亀甲山古墳なんかでもよいけど(原型をよくとどめているし、多摩川台公園内には古墳展示室もあるのだ。)。
で、よくよく思い返してみると、小学校のときに習ったけど、埴輪ってなんだっけ、と気になったのだ。
土偶と違うのは知っているけど、どう違うの?、と言われるともごもごしちゃうし。
というわけで、ちょっと調べてみたのだ。

端的に言えば、埴輪は古墳時代に作られたもので、古墳のまわりで出土するのだ。
土偶は縄文時代のもので、墓に限らず集落跡から出土するんだよね。
これで終わりというとさみしいので、もう少し詳しく見てみると、埴輪というのは古代の有力者の墳墓である古墳の装飾品で、土偶はどちらかというと民間信仰に基づくものみたいなんだよね。
土偶はよく壊れた状態で発見されるので、むしろ「壊すもの」だったんじゃないかって考えられているくらい。
そうなると、よりまじないの要素が強くなるよね。
ぼんきゅぼんの形状はもともと女性を表していて、大地母神信仰にもつながるとか言うし。

で、問題の埴輪なんだけど、日本書紀によると、1世紀後半の垂仁天皇の御代、それまで墳墓に殉死者を生き埋めにしていた風俗を野見宿禰(のみのすくね)さんが改め、人の代わりに土で作った人馬を用いることを提案したのが始まり、と書かれているんだ。
はに丸やひんべえみたいなやつだよね。
でも、年代を追って古墳を調べていくと、この時代にはまだ人型や馬型の埴輪はなくて、円筒形埴輪と呼ばれる筒状のものしかないのだ。
なので、すでに日本書紀編纂時には埴輪がなんであるかがわからなくなっていた可能性があるんだよね・・・。
二歩sんほきは8世紀前半の成立なので、その時点ですでに半世紀以上の時が経っているから仕方がないのかもしれないけど(古墳が作られなくなるのは6席後半なので、そこから数えても150年は経っているのだ。)。

考古学的に調査していくと、埴輪は古墳の発展とともに広がっていって、ヤマト政権の象徴と言われる前方後円墳とともに全国展開されていくのだ。
初期の埴輪である円筒形埴輪はすでに弥生時代末期の有力者の墳墓に見られるようで、それが徐々に発展していって、形象埴輪と呼ばれる人型や馬型のものが生まれるんだよね。
もともとなんであったのかは想像するしかないんだけど、墳墓のまわりに規則正しく並べられていたようなので、聖域の境界線を表すためのものだったんじゃないかという説が一般的みたい。
まさに、カラーコーンやロープで区画するイメージだよね。

その後、家形埴輪というのが登場するんだけど、これは死者の依代として作られたんじゃないかと考えられているんだ。
さらに、武具や甲冑のような器財の埴輪や、人や馬をかたどったものも出てくるのだ。
これはもう5世紀頃の話で、かなり古墳文化が成熟してきてからだよね。
実際に玄室の中には副葬品として剣や玉、鏡なんかが一緒に埋葬されているんだけど、富の大きさや権力の象徴として古墳をそういう器財の形をした埴輪で装飾することは容易に考えられるよね。
さらに、人や馬は葬送儀礼や生前の祭政の様子を再現しているという説があって、やっぱりその中に葬られている有力者の偉大さを象徴するようなものと考えられるのだ。
古墳の形が単純な方墳や円分から前方後円墳になっていったように、古墳の「意味づけ」の一端を担っていたんだろうね。

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