2016/01/02

年の初めの厄落とし

年が明けたのだ!
日本の伝統として、年明けには「初詣」に行くよね。
で、ついつい気になってしまうのが、「厄年」。
なんか年始早々脅されているような気もするけど、自分が厄年に当たると厄除けってした方がよいのかな?、という気になるのだ。
意味があるのかどうかはわからないけど、何かいやなことがあったときに、「厄年のせいだ」と考えてしまいがちで、気持ち悪いんだよね。
かなり心理的なものだけど。

この「厄年」、「厄除け」っていうものは、平安時代にはすでにあったようなのだ。
でも、その起源や根拠はよくわかってなくて、なんとなく風習として残っているだけ。
もちろん、科学的根拠はないのだけど、一説には、身体の状況や生活環境が変わる節目に設定されているのではないか、と言われているんだよね。
体調を崩しやすい時期だったり、生活に大きな変化がもたらされるような時期だったり。
こういうのを経験則的に「気をつけろ」と戒めている可能性はあるんだよね。
何はともあれ、何かのタイミングで自分の来し方行く末を気にするのはよいのかもしれないけど。

で、「厄年」には「厄除け」をするのだ。
「厄」というのは、よくない災いを呼び込むような状態を指す言葉。
なので、「厄」を祓って悪いことが起きないようにするというわけなのだ。
通常は祈祷してもらってお札をいただいたり、身代わりとなるものに厄を移したりするのだ。
これは神道における「祓え」の儀式から来るもので、神道では、自らの穢れを清める「禊ぎ」と、よくないものを取り除く「祓え」が重要な儀礼的要素なのだ。
日本では様々な場面で「お祓い」があるよね。

でも、ここであれ?、ってなるんだよね・・・。
だって、「厄除け」ってお寺でもやってない?、ということ。
東京で有名な西新井大師や厄除け祖師妙法寺はお寺。
お寺なのに「お祓い」?
関東ローカルのCMではおなじみだけど、相模国一宮の寒川神社も厄除けで有名なんだよね。
京都の平安神宮や石清水八幡宮もそうみたい。
というわけで、「厄除け」は神社でもお寺でもやっているのだ。

これは日本の宗教が「神仏混淆」で混乱している残滓なんだよね。
今でも「初詣」に行く先はお寺だったり、神社だったりするけど、本来は「今年もよい年でありますように」と祈願に行くので、神社に行かなければならないのだ。
でも、本地垂迹説などで、神道の神様の本体が仏教の如来や菩薩であるとして、神社とお寺の区別が曖昧になったんだよね。
明治の廃仏毀釈や神仏分離で無理矢理に整理したんだけど、これはいわば外面の話なので、民間の信仰レベルでは混ざったままなのだ。

そういうのが特に残ってしまっているのが、生活に身近な信仰・風習なんだよね。
安産や子育ての守り神として信仰されている鬼子母神。
これはもともとインドの神様が仏教に取り込まれたものなので、基本的には仏教なのだ。
でも、水天宮などと同様に「祈願」に行くんだよね。
村落の入口などのおかれて悪疫が入ってくるのを防ぐとされている道祖神も、もともとは「塞えの神」で神道なんだけど、なぜかお地蔵さんに変わっていたり、民間信仰の荒神様(青面金剛)と置換可能なのだ。
むかしは機能的に同一視されてしまっていたので、どれでもよかったんだよね・・・。

最後は自分の気の持ちようなので、安心材料になれば「厄除け」や初詣に行くのがお寺でも神社でもよいのだ。
鰯の頭も信心から、信じるものは救われる。
お正月から身もふたもないような話だけどね。

0 件のコメント: