2022/09/17

月が出た出た

 先週は中秋の名月だったのだ。
夕方に雲が出てきて心配したけど、夜には晴れ間が出て、まんまるの月がきれいに見えたよ。
満月だと、ちょうど日の入り頃に出て来るので特にきれいに見えるんだよね。
与謝蕪村の俳句「菜の花や月は東に日は西に」はまさにこのタイミングを詠んでいるんだよね。
これとは全く逆に、月が沈もうとしている頃に日が昇るのを詠んだのが、柿ノ本人麻呂の和歌「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えて振りさけ見れば月かたぶきぬ」で、東の方が白み始めた頃に反対側の西の方ではまさに月が沈んでいくよ、という情景だよね。
日が昇ってからもまだ少し月がうっすら見えているのが「有明の月」。
百人一首(坂上是則)で「あさぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里にふれる白雪」と歌われるよね。

このように、月は入りと出の時間が日を追うごとにずれていくんだよね。
月の満ち欠けの周期はまさに「ひと月」で約29.5日なので、毎日12.2度ずつずれていくのだ。
時間にすると48.8分で、月の出や南中の時間で言うと、毎日約50分ずつ遅れることになるよ。
新月は太陽と地球の間に月がある状態だけど、この場合は日の出とほぼ同時に月の出になり、日の入りとほぼ同時に月の入りになるのだ。
逆に、満月は地球から見て太陽と月が180度ずれて逆側にいるので、日の出とほぼ同時に月の入りになり、日の入りとほぼ同時に月の出となるのだ。
なので、中秋の名月の次期だと18時前に日の入りになるので、月の南中時刻は真夜中頃。
夜を通して月が見えやすい状態だよね。

むかしの日本人は風流で、月見は連夜楽しんで、徐々に遅れて出てくる月のそれぞれに名前をつけたのだ。
名前がついているのは、満月の1日前(月齢14)の待宵(まつよい)の月。
これは翌日の満月が待ち遠しくて、焦がれてしまう、というところから来た名前みたい。
満月の翌日、月齢15のときが十六夜(いざよい)。
これは、「ためらう」とか「進めない」という意味の「いざよふ」から来ていて、前夜から比べると月が出てくるのが1時間弱遅れるので、早く出てこないかなぁ、待ち遠しいなぁ、という思いだよね。
さらにその翌日は立待月。
これは1時間半強の遅れなのでまだ立って待っていられる、という感じ。
でも、さらに翌日になると居待月。
この日には2時間半遅れになるので、座って待っている、ということなのだ(「居る」は「居酒屋」の「居」で座るの意味。)。
そしてその次の日には臥待月(ふしまちづき)。
もう寝て待っているのだ(笑)
さおして、その次が最後で更待月(ふけまちづき)。
もう3時間半強遅れなので、夜も更けるまで待っていないと見られない、ということだよ。
このとき、月齢は19で、翌日になると月齢20=下弦の月になるので、月は半月から少し膨らんでいるくらいだね。

ちなみに、この時期の月を「中秋の名月」として愛でるのは中国の風習が伝わったものだけど、天文学的にも、この時期は北半球では太陽と月の角度の関係から観月に適しているんだって。
でも、実は関東以西では、この時期は夜の晴天率が低く、月が見えないことも多いのだとか・・・。
でも、逆に言えば、見えたり見えなかったりするからはらはらしてより焦がれるのかもね。
こういうのは手に入れてからよりも追いかけているときの方が楽しいのだ(笑)
で、雲に隠れて月が見えなかったときは「無月」、雨で月が見えないときは「雨月」と名前もついているから、見えないなら見えないで、見えなくて悲しいなぁ、と楽しんでいたのではないかと思うよ。

電灯が普及する前はとにかく夜は暗くて、今よりもっと月はきれいに見えたし、月の明るさを感じられたはずなのだ。
娯楽も多くないし、きっと目もよかっただろうから、月を愛でることを楽しんだんだろうねぇ。
しかも、月が出てくる時間は徐々に遅れるし、そのたびに満ち欠けがあるしで、ただ星を見るよりは飽きなかったのかもね。

2022/09/10

やわらか~

昭和の懐かしい給食、という話題でよく出てくるのがソフト麺。
もともと学校給食用に開発された麺類なんだそうだけど、懐かしんで中年層が食べたがるので、スーパーやネット通販で買えるようになっているんだって。
ボクは正直なところおいしかった記憶はないけどなぁ。
懐かしくはあるけど。
で、最近Yahooの特集記事で再びこの名前を目にして、気になったので少し調べてみたのだ。

「ソフト麺」の正式名称は「ソフトスパゲッティ式めん」というそうで、これは景品表示法に基づいて事業者団体が作る公正競争規約である「生めん類の表示に関する公正競争規約」では、「小麦粉に水を加えて練り合わせ、製めんし表面糊化した後加工したもの」と定義されているんだ。
これだとわかりづらいんだけど、簡単に言うと、製麺した後にゆでてから、さらに加工したもの、ということ。
Wikipediaの説明では、蒸した後にゆでる、とあるけど、実際は逆で、ゆでてから袋詰めして「蒸熱殺菌」されたもの。
これはさっきのYahoの特集記事で実際に製麺業者の人がそうしているからそうなのだ(笑)

「表面糊化」というのは、麺の表面付近のデンプンが糊化(アルファ化)すること。
糊化は、デンプンが熱によりまわりの水を巻き込んでゲル状になった状態。
お米を炊くともっちりとやわらかくなるのがまさにそうなのだ。
麺類をゆでると、麺の表面から水分が浸透していくんだけど、パスタではアルデンテなんて言ってshinnが残るくらいでゆであげる、なんてことがあるように、表面から中心に向かって徐々に水分が浸透していくのだ。
なので、表面付近は水分が多く、麺の中心付近は水分が比較的少ない状態なんだ。
これが麺独特のぷつっという適度な歯ごたえを与えているんだよね。
全体に均一に水分が分散しているおもちとは食感が違うのはこのため。

これはゆでることで麺の表面から徐々に水分が浸透していくからなんだけど、蒸した場合はこうはいかないのだ。
蒸して作る麺ってあんまりないので直接比較はできないけど、比較的近いのは小麦デンプンの皮を使った点心類。
蒸し餃子の皮なんかを想像してもらうとよいのだけど、ゆでた麺とはまた違う食感だよね。
これは、ゆでる場合に比べてさらにゆっくりとして水分が浸透していかないので、じっくりと水がしみていく結果、かなり均一に水分が浸透してしまうのだ。
なので、全体としてもっちりするけど、ぷつっという麺類にあるような歯ごたえはないわけ。
なので、蒸し上げた場合は、表面糊化にはならないのだ。
ま、ゆでてから蒸しても、蒸してからゆでても、最終的にできあがるものは同じような気がしなくもないけど。

ソフト麺の場合は、熱湯でゆで水でしめ、パックするのだ。
このパックしたものを高圧蒸気で殺菌することで、日持ちよくするとともに、芯までしっかり水分が浸透し、ぷつっという麺類独特の歯ごたえがなくなり、全体にもっちりした感じの食感の麺になるよ。
蒸す前だとほぼ細いうどんなんだそうだけど、蒸した後にだいぶ様変わりするのだ。
でも、実は、芯までしっかり水分が浸透した状態というのは、麺類が伸びた状態でもあるんだよね。
麺類が伸びるという場合、芯まで水分が浸透して歯ごたえがなくなるとともに、糊化したデンプンが老化して弾力性が失われ、かたくなったことを指すのだ。
通常は冷め切ってかたくなる状態までいくことはそんななくて、まわりのつゆや汁の水分をさらに吸い込んで芯までしっかり水分が浸透してだらっとした状態になると「のびた」って言うよね。
その意味では、ソフト麺ではできあがり時点ですでにのびているのだ。
でも、もともとそういうものなので、それ以上は変化していかないわけ。
つまり、これ以上は「のびない」ので、給食のように食材が配送されてから食べるまでにけっこう時間がかかる場合でも問題ないのだ。
この最初から伸びているような食感が「ソフト」なわけだけど、この食感をあまり好きになれない人もいるわけだよね。

ソフト麺がうどんと違うのはこれだけではないのだ。
なんと、原料の小麦粉が違うんだよね。
最初に塩と水と一緒に小麦粉を練って生地を作る工程はうどんと全く同じなんだけど、使う小麦粉の種類が異なるのだ。
通常うどんに使われるのは中力粉。
でも、ソフト麺に使うのは強力粉。
パンに使う小麦粉だよね。
これには理由があって、もともとはパン用に支給されていた学校配給粉という強力粉にビタミンBが配合された小麦粉を使っていたから。

高度成長期くらいのこと、まだまだ日本全体の栄養状態はよくなかったので、学校給食用のパンに使う小麦粉が配給されていたんだって。
でも、毎回パンだけだとメニューの幅が狭くなる。
当時はまだパン食もそこまで一般的ではないからね。
そこで、パン用に配給されている小麦粉で麺類を作ってみてはどうか、と考案されたのがソフト麺のはじまりのようなのだ。
現在は配給粉はないようなので、独自に強力粉を原料に作っているみたい。
まさに学校給食という枠組みの中で考案され、工夫されてきた麺なのだ。

2022/09/03

マナー講師の批判はマナー違反

 なんか最近はテレビとか変なマナーを目にすることが多くなったような気がするのだ。
最初に火をつけたのが、とっくりの注ぎ口からお酒を注ぐのはマナー違反、とかいう件。
注ぎやすいようにとがらせているのに、そこを使わない意味とは?
これを皮切りに、そういえばマナーと言われているものの中にも変なものが混じってないか、と注目を集めたのだ。
稟議書の押印の時に上司の方に向かって少し傾けて押してお辞儀しているようにするとか。
オンライン会議では右上が上座(?)とか。

そのむかしも、瓶ビールを注ぐときはラベルを上にして、とかそういうのがあったけどね。
こういうマナーって、「これが礼儀正しいやり方」という共通理解の上に成り立つものなんだよね。
テーブルマナーも層だし、上座・下座とかもそうだし。
逆に言うと、誰かが言い出しただけで、共通理解には至っていないのに、マナー講師と名乗る人たちが「これが正しい」と押しつけてくるから反発を受けるのだ。
しかも、とっくりの話のように荒唐無稽、本末転倒みたいなものもまざっているし。
変なマナーもどきを広めようとするのがマナー違反だよね。

とはいえ、儀礼的に「お作法」というものはむかしからきちんとあるのだ。
マナー講師がはびこる前は、「小笠原式礼法」というのをしっかり習って花嫁修業、みたいのもあったんだよね。
茶道ではお茶会にお呼ばれしたときのお作法があるし、柔道や剣道などの武道でも、礼に始まり礼に終わるみたいなお作法はあるよね。
そういうのに始まって、現代的なものとして、客先との電話は相手が切るまで待つ、就職面接では進められるまで座らない、とかそういう新たな局面に対応するお作法が出てくるわけ。

江戸時代の庶民にそういうのがあったかどうかはよくわからないけど、お祭りの時の祭礼行事には当然伝統的なお作法があったし、冠婚葬祭もどこまでかちっとしているかは別としても、失礼のないように、というお作法はあったのだ。
これが武家になると、「面子」の世界になってくるので、けっこう大変だったみたい。
御査証を指南してくれる人にきちんと付け届けをして教わらないと行けないのだ。
石高が低い旗本やお公家さんでも、そういう副収入で潤っていた人たちがいるみたい。
こういうので有名なのが「高家(こうけ)」と呼ばれる役職。

もともと一般名詞の「高家」は格式の高い家柄という意味なんだけど、江戸時代に役職名にもなったんだよね。
何をするのかというと、まさしくお作法を指南・伝授するのだ。
老中直轄の役職で、朝廷とのコミュニケーションをとる上での作法を教えるのだ。
忠臣蔵のもととなった赤穂事件で浅野内匠頭が吉良上野介に松の廊下で刃傷沙汰を起こしたのも、朝廷からの使者の供応に当たって浅野が吉良の指南を受けることになっていたんだけど、そのときの遺恨が原因。
こういうのは教えてもらわないと用意すべきものなんかもわからないから、意地悪されたら終わりなんだよね。
もちろん、教わる方の態度もあるし、十分なお礼というのも大事なのだ。

この高家職は旗本なんだけど、選ばれているのはかなり家柄のよい武家。
源氏足利流(室町幕府の足利将軍家の流れ。吉良家はこれに当たる。)、室町幕府の管領上杉氏の流れ、織田信長の流れ、武田信玄の流れなど。
徳川将軍家にしてみると、こういういわゆる名家を家臣団に従えているという意味も大きいのだ。
権威付けにつながるというわけ。
江戸幕府が長く安定的な基盤を築けていた要因がこういうところにもあるのだ。

高家は旗本ではありながら、一般に高い官位を与えられたのだ。
というのも、朝廷とのやりとりをする上で、官位が低いとそもそも官位の高い人たち(宮家や有力な公家)と調整ができないため。
通常は従五位下から従四位下くらい。
多くの大名は従五位下で、老中職に就く譜代や大大名がやっと従四位下になるので、旗本としては飛び抜けて高い官位なんだよね。
いわゆる「殿上人」、つまり、天皇のおわす御所の清涼殿への昇殿が許されるのが原則従五位からなので、これくらいの官位がないと仕事にならないのだ。
ま、これは名目上のもので、石高には連動してないんだけどね。

いずれにせよ、この昔のシステムだと、まさしく誰もが認めるような家柄のよい名家が伝統的なお作法について指南をするという形式だったわけだよね。
ビジネスとして勝手に新たなマナーを生み出したりはしないのだ(笑)
俗に元CAが甥とか言われるマナー講師だけど、マナー講師としての有資格であるかどうかも職歴や出自からわからないし、権威付けもないから、どうしても「軽い」のは確かだよね。
それを認識した上で、伝統的なお作法はそれはそれとして教える、現代的な問題に即したマナーは過去の伝統を踏まえた上でこういう考え方でこうやるのがよいのではと提案で留めるとか、そういうことをしないとたたかれるのは仕方がないような気がするなぁ。

2022/08/27

まわる、まわるよ、農業は回る

日本の農業の原風景と言えば、なんと言っても水田による稲作。
春に水を張って田植えをし、夏には青々とイネが育ち、秋には実って黄金色の稲穂が頭を垂れ、冬には水も抜かれてわらが積まれている、みたいな。
日本で水稲栽培が行われてきたのは、土壌の性質の問題もあるんだけど、この方法だと、連作障害が起こらないので、同じ土地で同じ作物を栽培し続けられるという大きな利点があるのだ。
江戸時代にはかなり開墾・新田開発が進むけど、山がちな日本にはそんな広大な農地は望めないので、連作障害を避けるため、貴重な農地を一定期間休耕しないといけないというのはきついのだ。
水稲栽培の場合、水田の水を入れたり抜いたりすることで土壌がリセットされるので、連作障害の原因と言われる病原体の増加・蓄積が避けられるんだよね。
また、作物の生育に必要なミネラル分(カリウム)も川の水から補給されるので、それが欠乏することもないんだよね。
肥料は足せばいいけど、肥料を加えれば雑草も生えやすくなるので、雑草が生育しにくい水田というのは肥料にふんだんにやっても雑草を除去するのが比較的楽、という利点もあるのだ。
これが陸稲栽培になると、土壌はリセットされないので、連作障害が起きるし、施肥して栄養分を補給すると雑草もわんさか生えてくるのだ。
これは小麦なども同じで、こうした連作障害などを避けるためには工夫が必要なんだ。

古代から熱帯地域で行われているのが焼畑農業。
これは一定の区画に火を払って現在生えている植物をいったんすべて焼却するんだよね。
こうすることで、酸性の土壌がアルカリ性の灰で中和されるとともに、カリウムやリン酸などの栄養に富んだ土壌になるのだ。
でも、ここで数年作物を育てていると、連作障害が出てくるので、そうなったらこの畑はいったん破棄して、次の場所に移るんだ。
うち捨てられた畑はそのまま自然変異で雑草が生えてきたりして、以前と同じような野原に戻っていくんだよね。
それが回復したところで、また焼畑をして農地にするのだ。
というわけで、焼畑農業っていうのは不可逆的に森林や草原を焼き払って農地にするわけではなくて、長期的に農地を循環させていく農法なのだ。
自然繊維で土壌の回復を待つのには相応の時間がかかるので、人口に比して結構広い土地がないとサステイナブルには成立しないんだよね・・・。
人口が多すぎると前に焼畑にした区画の土壌回復を待つことができないうちに次々と焼き払われる土地が広がっていくので、一方的な自然環境破壊になってしまうんだ。
歴史的に長い間続けられたってことはそれが持続可能だったからなんだけど、前提条件がくぁってしまって持続可能でなくなってしまったというわけだね。

焼畑農業のように自然変異に任せて土壌回復を待つと時間がかかるので、欧州で編み出されたのが三圃式農業。
これは三つの区画を用意し、秋まきの小麦・ライ麦、春まきの大麦・豆類、休耕して放牧地、というように順繰りに回すことで連作障害を回避するのだ。
放牧地にしている間はシロツメクサ(クローバー)なんかを植えて土壌中への窒素固定を促すとともに、家畜の糞によりリン酸などの有機成分も付加して土地を肥えさせるんだよね。
それで小麦やライ麦などの主要作物を生産し、その次の年はやせた土地でも生育できる大麦や豆類に転換、いよいよ土地がやせ衰えたら休耕、というサイクルだよ。
焼畑ほどではないにしても、必要な小麦の量からすると、その3倍の農作地が必要なんだよね・・・。
これでは大人口を支えられないのだ。
江戸時代は日本の人口が世界的にも大きく伸びているんだけど、これは水田による稲作と、三圃式による小麦栽培の農業生産力の違いもあるんだよね。

これをさらに発展させたのが、農業革命をもたらした転栽式農業。
休耕して放牧地にすると、広い土地に家畜がまばら、という感じだけど、これだと効率が悪いので、休耕せずに家畜飼料用の作物を育てる、ということにしたのだ。
飼料用作物としては、カブやジャガイモ、テンサイなんかを作ったみたい。
これが18世紀から19世紀にかけての話で、ちょうど同時期に起こった産業革命を支えることにもなったのだ
産業革命では大きな労働力が必要だけど、それまでの農業生産効率ではそれだけの人口を支えきれなかったわけで、これでやっと欧州でも大きな人口を維持できる農業生産基盤ができたんだよね。

ちなみに、自然環境により連作障害が回避されていたと考えられる例もあるのだ。
それが古代エジプト。
「ナイルのたまもの」とはまさにそれで、ナイル川が不定期に氾濫することで、土壌に蓄積された病原体が排除され、また、栄養分に富んだ土がもたらされ、古代エジプト王国を支えるだけの農業が可能になっていたんだよね。
古代エジプトの主要作物は小麦だけど、水稲栽培で人工的に行っているような水入れ・水抜きがナイル川の氾濫によって自然に起こっていたということだね。
今では砂漠のイメージしかないけど、古代は一大農業国だったのだ。
だからこそピラミッドなんかも作れたわけだけど。

ちなみに「エジプトはナイルのたまもの」というのは、ヘロドトスの「歴史」にある言葉だけど、どうもこの意味ではないらしいんだよね。
農業生産性の高さのことをいっているわけではなく、古代エジプト王国の中心地は、ナイル川によって作られた中州、ナイル・デルタにあったので、この王国があるのもナイル川のおかげだ、くらいの意味らしいよ。
確かに、古代ギリシアの人間が必ずしも連作障害と川の氾濫を関連づけて考えていたとも思えないし、そんなものかもね。

2022/08/20

1/4の議員の要求

シャムシェイドの代表曲と言えば「1/3の純情な感情」。
そして今回は1/4の議員の要求。
先日、野党が合同で衆参両議長宛に臨時国会開催の要求を出したのだ。
この要求を出すには、議院に属する議員の1/4以上の賛同が必要なんだよね。
ただ、封土を見ていても、出したと言うだけでどういうことがよくわからないので、ちょっと手続的な所を調べてみたのだ。

今回の要求は、日本国憲法第53条に基づくもの。
同条は前段で「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。」としつつ、その後段で「いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」と規定しているのだ。
つまり、衆参のどちらかの議院で1/4以上の賛同があれば、臨時国会の開催を内閣に迫れるというわけ。
衆議院の総選挙後や参議院の通常選挙後の臨時国会の場合だと、議員の任期が開始する火から30日以内に開催しないといけない、と国会法に規定されているんだけど、こっちはいつ開かなければいけないという規定はないんだよね・・・。
つまり、内閣は、臨時国会の開催の決定はしなくてはいけないけど、その開催時期は裁量を持って決めることができるのだ
今回の場合で言えば、通常秋の臨時国会は9月に入ってから開会されるけど、それを多少でも当初想定していた時期より前倒しにするのか、そのままの時期にするのかは、内閣の判断で決めることができるというわけ。
さすがに憲法に則った手続で要求されたものを軽視するわけにもいかないだろうから、なんらかの調整はするんだろうし、ちょっとは前倒しをするような気もするけど、衆参どちらでも与党が圧倒的に有利な状況だから、受け止めるだけ受け止めて実質何もしないというのはあるかもしれないのだ。

今回の「1/4の要求」の内訳だけど、詳細は報道に出ていないので不明ながら、衆参両院の党勢で見ると次のとおり。
【衆議院】
定数465で、うち与党293、野党167、無所属と欠員で5。
定数いっぱいの1/4とすると、117以上の賛同が必要。
で、野党の党勢として主要なものを見ると、立憲97、維新41、国民11、共産10、れいわ3。
今回代表戦中の維新は賛同していないそうなので、立憲・国民・共産・れいわの全議員が賛同すれば121になるので1/4を超えるのだ。
【参議院】
定数248で、うち与党145、野党94、無所属が9。
定数いっぱいの1/4とすると、62以上の賛同が必要。
で、野党の党勢として主要なものを見ると、立憲+社民39、維新21、国民12、共産11、れいわ5。
維新を抜いて立憲+社民・国民・共産・れいわの全議員が賛同すれば67になるので、1/4を超えるのだ。
野党会派にいる他の議員の賛否はよくわからないけど、両院で維新を除く主要会派が賛同すれば1/4を越える賛同は得られるってことだね。
過半数には届かないから、決議案や法案を通すのは厳しいけど、開催を迫るくらいはできるということか。

数はそろうので、その手続を進めるわけだけど、どうやって要求するかは国会法に規定されているのだ。
国会法第3条で、「臨時会の召集の決定を要求するには、いずれかの議院の総議員の四分の一以上の議員が連名で、議長を経由して内閣に要求書を提出しなければならない。」と規定されているものがそれ。
この条文のポイントは2つで、ひとつは、「総議員の四分の一以上」という部分。
つまり、定数の1/4ではないので、欠員がある場合は、それを除いてよいのだ。
今回衆議院には欠員1があるので、欠員を除いた464の1/4以上の賛同があればよいのだ。
ま、465だと端数が出るから117必要なんだけど、464だときれいに割り切れて116でよいのだ。
もう一つのポイントは「議長を経由して内閣に要求書を提出」というところ。
今回の報道でも、野党が衆参の両議長宛に要求書を提出した、と報道されているのはこのため。
議員が連名の要求書を直接官邸とかに持っていくわけではないのだ。

こうしてみてみると、今回の報道の背景が少しわかってきた気がするよね。
意外に少なくてびっくりするけど、1/4以上の賛同は両院でもクリアしている、なので、要求書を両院議長に提出した、というわけだ。
あとは、政府の側がこの要求を受け取ってどう対応するかだね。
国会の会期等については原則与党と政府が一体となって対応を検討するので、内閣総理大臣であり、自民党総裁でもある岸田さんがなんらかの政治判断をした上で、今後、与野党の国会対策委員会同士で調整が行われるはずのだ。

2022/08/13

手仕込みの黒

 最近、飲食店でもお酒を飲まず、ソフトドリンクで済ませる人が多くなったみたいだね。
コロナの影響でアルコール飲料の提供が抑えられたりした事情もあるんだろうけど、お酒の売り上げも下がっているみたいだから、お酒自体が飲まれなくなっているのかも。
お酒以外でもストレス発散したり、楽しんだりできることが増えたからなぁ。
ボクも基本はおつきあいでしか飲まないしね。
そんな中でよく見かけるようになったのが、「クラフトコーラ」。
ようは自家製コーラなんだけど、手作りのコーラシロップを炭酸で割ったものなのだ。
自家製ジンジャーエールとかは石北会計のお店で見かけることもあったけど、コーラはここ最近の気がするのだ。

そのむかしはタブクリアなんて透明なコーラもあったけど、一般に、コーラといえば、カラメル色素の黒と強い甘み、その置くに感じるほのかな酸味が特徴のソフトドリンク。
米国の場合、ノンアルコールの飲料というと、ミネラルウォーターか、ものすっごく甘いアイスコールドティーか、コーラくらいしかなかったのだ。
最近は日本からやってきた冷たい緑茶やウーロン茶なんかもあるみたいだけど。
なので、水以外はみんな甘い・・・。
ま、そういう食文化なんだよね。
ハンバーガーやピザだとコーラも合うしね。

コーラの元祖的な位置づけはなんといってもコカ・コーラ。
もともとは栄養ドリンク的な位置づけで開発されたもので、禁酒運動の時代に合わせ、薬用酒に代わるノンアルコールのもの、ということで開発されたようなのだ。
なので少し薬臭いわけだけど、それが清涼感があってよかったみたい。
強い甘みや柑橘系の酸味もその薬臭さや中に入っているスパイスやハーブの苦みをごまかすためでもあるんだよね。
当初は水で割っていたわけだけど、どこかで間違えてその頃製造が始まったばかりだった炭酸水で割ったところ、爽快感と清涼感が受けて一気に売れるようになったのだとか。
その後、禁酒法がいよいよ施行されると、お酒の代わりに食事とともに飲まれるようになっていくのだ。

コカ・コーラという名前は、原料にコーラの実とコカの葉を使っていたことから来ているんだ。
コーラの実はカフェインを割と多く含む実で、もともとは少しずつかみ砕いて楽しむ嗜好品。
カフェインの覚醒作用もあるんだけど、かむと空腹感を紛らわせる効果があってたしなまれていたようなのだ。
このコーラのみのエキスを使っていたので、コーラにはカフェインが含まれているんだよ。
今ではコーラのみを使うことはほぼなく、茶葉などから抽出したカフェインを別に添加しているようだけど。

そして、コカの葉。
もちろん、麻薬のコカインを含むコカだよ。
発売当時はまだ普通に売られていたようなのだ。
当然のことながら、20世紀に入るとコカインの販売が法律上禁止されるので、コカ・コーラの原料からコカの葉は消えていくのだ。
なので、実際にはコカインが含まれていたのはごくごく初期だけ。
コーラには妙な中毒性があって、実はまだコカインが入っているとか、カフェインが強いからとか言われるんだけど、おそらく、ただ単に糖分が多く含まれているからなんだよね。
甘いものには中毒性があって、コーラの場合、飲料としては破格の量の糖が入っていて、しかももっとも吸収しやすいブドウ糖なんだよね。
なので、医療的にも低血糖貧血なんかの場合にはまずコーラを飲ませるべし、となっているくらい。
甘いものはやめられないのだ(笑)

このコカインが入っていた最初期のコーラのレシピは実は普通に売られていたので、今でも見ることは可能。
よくコカ・コーラのレシピは門外不出とかいうけど、それは現在のレシピだよ。
なので、だいたいこんな感じのものを混ぜればコーラ風味になる、ということはわかっていて、ペプシが一番メジャーだけど、コカ・コーラ以外のコーラも多く販売されているのだ。
イオンのトップ・バリュのやつはなんか違うもののような気がしたけど・・・。
で、そういうのを自分で調合して作るような人もいるわけで、そうしてできてきたのが手作りコーラであるところのクラフトコーラ。
このクラフトはクラフトビールのクラフトと同じ工芸品の意味のクラフトで、職人が手作りしている、ってなイメージだよ。

けっこう早い段階でこういう手作りコーラというのはあったみたいなんだけど、今のクラフトコーラのブームの先駆けになったのは伊良コーラ。
神田川沿いの下落合にあるよ。
代表のコーラ小林さんという人が、まさに最初期のコーラのレシピを偶然ネットで見つけて、自分で作ってみた、というのがはじまりみたい。
そのレシピを再現したものがコーラ好きのコーラ古馬や資産的には実はあまりおいしくなかったようで、そこから自分でいろいろ工夫して作り上げていったらしいのだ。
そのとき、漢方をやっていた祖父の伊藤良太郎さんの残した資料なんかも参照したので、「伊良」なのだ。
ボクはこのお店の前を通りかかったことは何度もあるんだけど、まだコーラを作っている現場は見たことないんだよなぁ。

2022/08/06

待て、あわてるな、これはトウケイの罠だ

ひろゆき氏のディベートでの必殺技のひとつとして「それって何かデータとかあるんですか?」というのがあるけど、最近は、論拠としてのデータを示しつつ論を展開する、というのが増えているよね。
報道なんかでもいろんなデータが出てくるようになったのだ。
そもそも自分に都合のよいデータをうまいこと探してくる、っていうのもあるんだけど、それだけでなく、データには読み方っていうのもあるんだよね。
それが基礎知識として理解できていないと誤解が生じるおそれがあるのだ。

典型的なのは、「国民の貯蓄額」みたいなデータ。
ここで出てくる「平均値」は実態を反映していないことが特に多いのだ。
40代の平均貯蓄額は○○万円でした、みたいな報道が出ると、多くの場合、「え、みんなそんなに貯蓄あるの?」といったコメントがつくんだよね。
でも、これはごく自然なこと。
というのも、この平均額付近の貯蓄額のそうっていうのは人数的には多くなくて、そこそこの数の「お金持ち」と、けっこうな数の「お金なし」の人たちがいて二極化しているから。
ヒストグラムのような手法で貯蓄額の分布を見てみると、定額の方に大きなひとつの山、光学の方にもう一つ小さな山があることが多いんだよね。
こういう場合、単純に平均を取ってしまうと、その山と山の間の、実は人数的にはさほど多くないところに平均値が来てしまうんだよね。

一般に、平均値がその集団のメインボリュームを代表できるのは、分布図を取ったときに大きな山がひとつの場合。
山がひとつでもあまり大きな山でなくなだらかな場合だと、一番人数が多いところから平均がずれてしまうのだ。
そして、山が1つでも極端なはずれ値がないこと。
所得なんかの場合、極端に所得額の多い人が一人いるだけでも平均がずれるんだよね。
例えば、99人の平均所得が100だったところに、100,000の人が一人はいると・・・。
100人になったときの平均所得が1,001になってしまうのだ!
現実世界でも、年間数百万くらいの年収の人が多い中、桁外れな人の年収は数十億円なんてことはあって、この場合、平均年収が数千万円と出てしまうんだよね。
ネットで有名な、平均という概念を壊した「校長」の効果なのだ。

一番盛り上がっているところに平均値が来るのは正規分布に近い分布をしている時なんだよね。
偏差値なんかは平均値からどれだけ離れているかをわかりやすく数値で表したものだけど、例えば小学生に大学入試共通試験の択一型試験を受けさせた場合、学力では問題を解けないので基本はすべてランダムに回答が記入されることとなり、理想型に近い正規分布が得られるのだ。
これはもう運だけの世界で、偏差値が高い人=たまたま運良くマークした箇所が正解になった数が多かった人、ということになるんだよね。
ところが、ある程度解ける問題が混ざってくると、この分布が正規分布から外れてくるのだ。
例えば、超天才だけが解ける試験問題を作ると、ほとんどの人は零点なのに、数人だけ100点をとったりすると、平均は10点と出たりするんだけど、実際には零点と100点の人しかいないのだ。
また、ふたつある問題集のうち、A問題集をやった人は解けるけど、B問題集をやった人は解けないような問題があった場合を考えると、A問題集をやった人の集団とB問題集をやった人の集団の2つの集団の重ね合わせになって、山が2つある分布になったりするんだよね。
こういうときにはあまり平均値や偏差値のような指標が集団の特徴を表さなくなるのだ。

こういう場合、事前に世の中にはふたつの問題集があって、そのどちらかだけをやっている人が試験を受けている、ということが事前にわかっていれば、最初から集団を2つに分けて統計解析ができるんだけど、実際にはそんな単純はないんだよね。
超天才がいるかどうかも超難問の試験をしてみないとわからない。
ヒストグラムを作ってみて、実際の分布の様子を確かめるしかないのだ。
その上で、山が2つあったりすると、何かの要員で集団が2つの層に分かれそうだ、という推測をしていくことになるんだよね。
そういうのを分析するのがまさに「目利き」の技なんだけど。
はずれ値の場合はヒストグラムで明らかに変な一にデータが出てくるので、それを除外してあげればいいのだ。

ではでは、こういう平均値があまり意味をなさないようなとき、この集団の特徴をどうやって表現するか、ということが問題になるよね。
毎回毎回ヒストグラムを書いて載せるというのも大変だし。
こういうときによく使われる簡単な指標が最頻値とか中央値と呼ばれるもの。
平均値(mean)は単純にデータの合計をデータ数で割ったもの。
これに対して、最頻値(mode)は、ヒストグラムを作ったときに、もっともデータの出現数が多かったところ。
そして、中央値(median)は、ちょうど真ん中にあたるデータの値(データが101個あれば上から数えても下から数えても51番目に当たるところ、データが100個の場合は、50番目と51番目の平均。)。
さっきの零点と100点しかいない例だと、どちらも零点になるよ。
中央値の応用技で、さらに分布の様子を知りたいときは、四分位点をとることもあって、上位25%点、50%点(=中央値)、75%点ととることで、なんとなくヒストグラムの様子がわかるようになるのだ。
こういうのが仕えると、ちょっと統計をわかっている人になれるんだよね。

逆に言うと、あんまり説得力のあるデータ出ない場合でも、こういうわかりやすい指標をあえて避けて、本来その集団の特徴を表していないはずの平均値なんかを使って説明する悪い人もいるのだ。
そこまで悪い事例ではないけど、みなさん月々保険料はこれくらいお支払いです、みたいな感じで保険の勧誘時に平均値で説明してくる場合なんかがそう。
保険は入る層と入らない層がまずわかれ、手厚くお金をかける層と、そこそこ入っておけばよい層とその下位分類もあるので、保険料支払額の分布を見ると山がいくつもあるようながたがたの分布図になるはずなのだ。
そんな状態で「平均値」をそのまま使っても、その平均値近くの保険料を納めている人たちは「一般的」とは言えないんだよね。
これは年収別とか、既婚・未婚別とか、条件付で出した値ならまだしも、あれこれ全部ひっくるめての平均じゃほぼほぼ意味のない数字だよ。
データを示せといっても、こういうように読み解く力がないとなんとなくわかった風になってダマされるだけになるんで危険なのだ。