2021/11/13

舶来のマネー

 ひさしぶりに紙幣が新しくなるよね。
今度の1万円札は、日本近代経済の父・渋沢栄一翁なのだ。
女性枠となっている5千円札が津田梅子、千円札が北里柴三郎だよ。
これらの新紙幣は2024年度上期からの発行を目指しているそうなんだけど、実は、すでに新しくなっているお金があるのだ。
それが500円硬貨。
海外の硬貨のように今回から金に縁取りされた銀色で2色になるよ。
こちらはもう11月から出回っているのだ。そのうち見かけるはずなのだ。
日本は世界的にも紙幣・貨幣の技術が高いんだけど、それでも時間が経つと偽造されるリスクが高くなるんだよね。
なので、ある程度時間が経ったところで新しくする必要があるのだ。

ところが、過去の日本においては、偽造防止とはまた違った観点で「改鋳」が行われていたんだ。
それは、貴金属の含有量の低減・・・。
当時は紙幣なんていうバーチャルなお金は存在していなくて、貨幣そのもの自体に価値がることが重要だったのだ。
なので、金銀銅などの貴重な金属で通貨を鋳造していたんだよね。
で、政府が財政難に陥ったとき、流通している通貨の「質」を下げる、と言うことをしていたんだ。
同じ量の貴金属で流通する通貨の量だけを増やそうという作戦。

これは紙幣の刷りすぎでも同じなんだけど、こういうことをするとけっきょくは通貨自体の価値が落ちてしまって、名目上は物価が上がってインフレが起こるのだ。
江戸時代の改鋳はたいてい不評で、かなり質の悪い小判もあるんだよね。
平安時代の場合、ar¥田らしい通貨ができると、1000%のでのみが行われ、前に流通していた通貨の価値が強制的に1/100にされていたようなのだ。
そうすると、通貨を発行する側としてはいいけど、「貯金」を指定ティとカラするとたまったものじゃないよね(>_<)
さらに、当時の通貨は主として銅銭だけど、そもそも当時の経済活動を支えるだけの通貨を製造できるほどの銅の生産量がなかったのだ・・・。
結果として、新しい通貨は名目上の価値は高いのだけど、銅の質は悪い、という最悪の事態に。
こういうのが続いて、平安時代後期には独自の通貨の発行がなくなってしまうんだよね。
実際に流通していたかどうかがよくわからない、最古の富本銭は別として、時の朝廷が流通させるために鋳造した通貨は、和同開珎から乾元大宝まで12種類あったわけだけど(皇朝十二銭)、そこで打ち止めになるのだ。

そうなると、物々交換の世界に戻らないといけないんだけど、すでに商取引・経済活動はかなり発達していたので、そういうわけにもいかなかったのだ。
そこで使われるのが、中国や朝鮮から輸入されたお金。
つまり、渡来銭だよ。
すでに見たように皇朝十二銭は質が悪いので、その頃から密かに使われていたらしいけど、正式に朝廷発行のお金がなくなれば大手を振って使えるわけ(笑)
日本からは生糸や海産物の干物なんかを輸出し、銅銭を輸入していたのだ!
宋銭や明銭などが有名だよね。

ジンバブエでは政府が発行したジンバブエドルの信頼が地に落ちてハイパーインフラが起きた結果、ジンバブエドルの価値はすでになくなり、代わりの米ドルが通貨として使われるようになったことがあるよね。
あのとき、1兆ジンバブエドル札だ、とかなんとか画像が話題になって日本では面白おかしく紹介されていたけど、実は同じようなことが古代日本では起こっていたのだ。
朝廷が発行した通貨を捨てて、中国の貨幣を代わりに使っていたわけだからね。

で、公式に為政者が貨幣を再び発行するようになるのは江戸時代。
幕府が穴あき銭の銅貨を鋳造したのだ。
銭形平次の投げる寛永通宝が特に有名だよね。
これは江戸時代を通じて広く流通したのだ。
小額通貨はそれでよいのだけど、高額通貨については、上方や地方では主に銀貨(一分銀、二朱銀など)が、江戸では主に金貨(いわゆる大判小判)が用いられたよ。
銀貨の場合は、額面が決まっている銀貨もあれば、秤量して重さで価値が決まるものもあって、そっちの方が流通させるには便利だったみたい。

今は通貨の価値はその素材ではなく、発行している国の信頼度に依存するけど、逆にいうと、その発行国の信頼がなくなれば、通貨の価値も下がったり、取引停止になったりするわけだよね。
ソ連崩壊時にルーブルがハイパーインフレを起こした例もあるのだ。
そのため、国際商取引では「基軸通貨」と呼ばれる、国際取引において決済可能な通貨が決まっているのだ。
かつては英ポンド、米ドル、今は日本円やEUのユーロもそうだよね。
つまり、国内の経済活動は別としても、元代のようにグローバルな経済活動が行われる場合、けっきょく多くの国は他国の通貨で取引をせざるを得なくなっているのだ。
そう考えると、だったら自国発行通貨を持たずに、グローバル通貨を使わせてもらうっていうのもありだよね。
その考えがいきつくと、ビットコインのような仮想通貨になっていくんだけどね。

2021/11/06

バード・フェスティバル

 緊急事態宣言が明けて、さっそくハロウィンの渋谷は大変な混雑だったようなのだ。
そういう瞬間的なイベントに限らず、各行楽地にも人が戻ってきているようだね。
昨年のGoToの二の舞にならぬよう、感染対策をしっかりした上で出かけるべきだとは思うけど。
そんな中、東京では次の大きなイベントとして、「酉の市」が控えているのだ。
11月の酉に日に開かれるお祭りで、2回又は3回夜通し市が立って盛り上がるのだ。
「福をかき込む」と言われる縁起物の熊手が有名だよね。
商売繁盛を願うものだよ。
お仕事を増やしたくはないけど、ボクも浅草の鷲神社、目黒の大鳥神社、新宿の花園神社などでいただいたことがあるよ。
ちなみに、今年は11月の9日が一の酉、21日が二の酉だよ。

いわゆる「オオトリ神社」は天日鷲命(あめのひわしのみこと)をまつる神社。
この神様は、天照大神が天岩戸にお隠れになった際、天鈿女命の舞に合わせて楽器を奏でていた神様。
天手力男命が岩とを明けた際にその楽器の弦の先に大きな鷲が止まったので、この鷲こそは世の中を明るくする吉祥だということになり、「天日鷲」という名前になったんだとか。
その本じゃと言われているのが、埼玉県の鷲宮神社。
そう、らきすたのあの神社だよ。

しかしながら、酉の市の発祥は足立区花畑の大鷲(おおとり)神社と言われているよ。
もともとは、日本武尊の東征の折、埼玉の鷲宮神社で戦勝を祈願し、無事戦に勝った後、足立区の大鷲神社の地で戦勝を祝ったとか言われているんだ。
11月なのは、日本武尊が亡くなったのが11月の酉の日だったとか、先勝を祝したのが11月の酉の日だった、とかいう話になっているよ。
でも、この足立区の大鷲神社は実は平安時代の創建で、日本武尊ではなく、八幡太郎義家公の東征の折(後三年の役)、弟の新羅三郎義光公がこの地で戦勝を祈願した際に大きな鷲を見かけ、これぞ瑞祥とまつったのが始まりとされるよ。
江戸時代は「鷲明神」という名前で、どちらかというと八幡系の神社だったみたい。
なぜか明治期以降に祭神に日本武尊が加わり、ずいぶんと時代をさかのぼった戦勝祈願の話に変わったのだ。

どうも、もともとはこの土地の収穫祭として行われていたのが「酉の市」の起源で、この大鷲神社がある当たりは綾瀬川があって水運城便利でものが集まること、江戸郊外で日帰りで遊びに出かけられることなどから、江戸庶民の行楽先として人気が出て盛り上がったようなのだ。
江戸名所図会にも紹介されているほどなので、かなり有名な遊楽地だよ。
でも、江戸中期の安永年間のころ、辻賭博が盛大に開かれたことが幕府に問題視され、禁止令が出たので徐々に衰退していくのだ・・・。
どうしても人が集まると治安が悪くなるんだよね(>_<)

この足立の酉の市では、近隣王民が神社に生きた鶏を奉納し、祭が終わった後に浅草観音堂前で放つ、という行事があったのだ。
そのつながりがあったからなのか、江戸後期になると酉の市の中心は浅草に移っていくよ。
浅草の鷲神社はちょうど新吉原遊郭の裏手。
もともと人出が多いところなので、治安もこれ以上悪くなりようがないんだよね(笑)
何もなくても人の集まるところなのでここが一大メッカとなり、それにあやかろうと江戸周辺のオオトリ神社でも同じような酉の市が立つことになったようだよ。
新宿の花園神社は内藤新宿のそう鎮守で、やはり岡場所で有名なところ。
常に人が集まるので、ここも大きな酉の市になるのだ。
目黒は、「目黒のサンマ」で将軍が鷹狩りをしていたように当時は農村地帯。
でも、目黒不動瀧泉寺はやはり人気のある行楽地だったんだよね。
自然と人が集まるので、いつしかその近くにある大鳥神社の酉の市も賑わうようになるのだ。
こうして、足立で始まった酉の市が浅草で大きくなり、江戸周辺に広がっていったというわけ。

去年はコロナの影響もあってひっそりしたものだったけど、例年浅草や新宿の酉の市はすっごい人出なんだよね。
周辺の道は大渋滞!
はてさて、今年はどうなるやら。
楽しいのは楽しいけど、まだちょっとこわいよなぁ。

2021/10/30

ダブルチャンスにかけろ

もうすぐ約4年ぶりとなる衆議院総選挙。
今回はほぼ任期満了までやっていたのか。
コロナ禍は落ち着いてきているし、コロナ対応の関係もあってけっこう政治への関心も高まっているから、投票率は上がるかな?
今回は、令和に変わってから最初の総選挙で、かつ、21世紀生まれの人が初めて投票できる総選挙なんだって。
いろいろと注目の選挙なわけだよね。

ボクが常々衆議院総選挙で不思議に思っているのは、「比例復活当選」という制度。
なんだかくじの「ダブルチャンス」みたいだけど、選挙区で落選したのに議員になれちゃうの?、というところが引っかかるのだ。
もともとはいかに「一票の格差をなくすか」というところから出発してたどり着いた結論なんだけどね。
俗に、小選挙区で当選した人が「金バッジ」、比例復活当選の人が「銀バッジ」、比例単独で当選した人が「同バッジ」なんて言われることもあるけど、やっぱり政治の世界でもなんらかの「格」のようには見られているんだよね。
ま、仕事をしてくれれば問題ないのかもだけど。

そのむかしは、中選挙区制というやつで、わりと大きめの選挙区で3~5名が当選する、というシステムだったんだよね。
この方式だと、一つの選挙区からは一人しか当選できない小選挙区制と比べて「一票の格差」は是正しやすいし、比較的少ない得票数で当選可能なので中小政党でも下位で当選できるという特徴があるのだ。
でも、同一政党内での「同士討ち」が発生する可能性があるので党内の派閥の力が強くなるとか、特定の団体の支持さえ取り付ければ当選しやすくなるので利益誘導に走りやすくなるとか乃問題点が指摘され、平成の政治改革でなくなったんだよね。

代わりに導入されることになったのが小選挙区制。
でも、全議員定数を小選挙区に振り分けようとすると、都道府県を越える選挙区設定をしなくてはいけないので、現実的ではないのだ。
仮に無理矢理やろうとすると、人口の少ない県(鳥取や島根)は一人の当選者も割り振れなくなってしまい、複数県でひとつの選挙区、みたいなことになってしまうんだ。
でも、選挙事務は地方自治体に下ろされていて、各都道府県選挙管理委員会が実施するので、そういう県境を越えるような選挙区の設定はできないのだ。
なので、どうしてもどの都道府県も最低一人は当選させることになるわけ。
そうすると、どうしても「一票の格差」が大きくなってしまうんだ。
つまり、議席数が480で47都道府県なので、単純平均してしまうと10議席くらいずつになるんだけど、人口ベースで格差がないように計算すると1議席あたり人口の2%になってしまうのだ。
でも、総人口の2%というと焼く240万人で、島根や鳥取は60万人をきっているので、1/4議席しかもらえなくなってしまうのだ・・・。

そこで小選挙区制と合わせて導入されたのが比例代表制。
参議院は全国ブロックだけど、衆議院の場合は地域ごとのブロックだよ。
個人個人が出馬するのではなくて、政党ごとに候補者名簿を提出してもらって、政党ごとの得票数に応じて議席を振り分けるのだ。
すべてを比例代表にしてしまうと少数政党が乱立しやすくなってしまって安定的な政権が立てづらい、というデメリットが出てくるのだけど、小選挙区制と組み合わせることで、それぞれのメリットを生かそうというコンセプトなんだよね。
でも、上で見たように、人口の少ない県はもともと1議席を持てないので、ただ単に比例代表と組み合わせるだけでは大きな格差の是正にはつながらないのだ。

そこでさらにひねり出されたのが、現在の制度。
小選挙区で立候補した人が比例代表にも重複して立候補できるようになっていて、かつ、その重複立候補者については、候補者名簿上同一順位で並べることができるようになっているのだ。
同一順位のままだと議席を割り振るときにどちらを優先するか、という問題が発生するのだけど、そこに「惜敗率」というう概念を使うのだ
これは、小選挙区で落選したとき、当選した人に対してどれだけの割合で得票できていたかを表す数字。
当選者が得票数100で、重複立候補している人が落選したときの得票数が80だった場合、惜敗率は80%。
同一順位の場合は、この惜敗率の数字の大きな人を優先させる、ということなのだ。
こうすることで、僅差で負けた人ほど復活当選しやすくなるので、小選挙区の大きな問題である「死に票」の問題が多少改善されるのだ。

都市部の小選挙区と田舎の小選挙区を比べた場合、同じ議席1の割合であっても当選に必要な得票数はけっこう違うんだよね。
これは「一票の格差」の裏返しな分けだけど、下手をすると、都市部で落選した人の方が田舎で当選した人より得票している場合があるのだ!
そうした場合でも、重複立候補していれば比例復活当選できるので、民意をより正確に反映できるのではないか、ということ。
そう考えると、確かに意味のある制度かもしれないよね。

でも、ここまで来るとさすがに制度が複雑すぎるよね・・・。
なので、中選挙区に戻すべき、という意見も根強くあるのだ。
その方が泡借りやすいよね。
とはいえ、この惜敗率を使った復活当選を含めると、1議席を割り当てられないような人口の少ない県の問題を考えると、格差は小さくなる傾向にあるのも確か。
なかなかこうへいな選挙制度というのは、政治的にだけじゃなく、数学的にも難しいものなのだ。

2021/10/23

上を下への大議論

 いきなり秋深まってきたのだ。
朝晩が寒い。
ついこの間まで暑いくらいでタオルケットだけでよかったのに、今ではお布団が必須だよね。
そして、それだけでは足らず、もう1枚くらい足したいところなのだ。
そこで出てくる問題が、「毛布は布団の上なのか下なのか」問題。
最近は「毛布は布団の上に掛けるのが正解」みたいのが広まってきているけど、実は、これはあまり性格ではないみたいなのだ。

調べてみると、一定の条件下ではこれは正しいのだけど、常に正しいというわけじゃないんだよね。
具体的に言えば、羽毛布団と化学繊維の毛布の場合は、布団の上に毛布がいいらいしのだ。
高級な羊毛の毛布なんかの場合はむしろ布団の下の方がいいらしいよ。
そして、そもそも羽毛布団じゃない場合、綿の布団の場合はどうするのがいのかあまり正解がないみたいなのだ・・・。
実験すればわかるようなものだし、ちょいちょい話題になるので誰かやっていても良さそうなんだけど、情報がないんだよね(笑)

この布団問題のポイントは、保温性と吸湿性みたい。
熱が逃げなければいいだけなら、それこそビニールシートでもかぶればいいわけだけど、それでは快適ではないんだよね。
なぜなら、人の体からは熱と一緒に蒸気も出ていて、その蒸気がこもると「蒸れる」から。
これが不快なので、ただただ保温性を高めるというのはだめなのだ。
吸湿性があって、出てきた蒸気はうまいこと外に出て行ってくれないといけないわけ。

化学繊維の毛布の場合、保温性は抜群なんだけど、吸湿性がないのだ。
洗濯するときにわかるけど、水を吸ってくれないんだよね。
そうなると、体の上に化学繊維の毛布を掛けると、熱とともに上記がこもることになるのだ。
さらにその上に布団が乗れば蒸れてしまうわけ。
逆に、羽毛布団は羽毛の間に多くの空気を含んでいて、これが断熱効果を発揮して保温性があるのだ。
でも、蒸気は通すので、吸湿性はあって蒸れない。
この上に化学繊維の毛布を乗せると、ちょっとずつ逃げていく熱が化学繊維の毛布にトラップされるので保温力が高まるのだ。
蒸気自体はいったん羽毛布団がいったん吸ってくれるので蒸れにくいのだ。
もちろん、羽毛布団の吸湿限界を超えるくらいの蒸気量だったり、長時間だったりすれば蒸れてくるけど、普通に人が寝ているくらいの場合には問題にならないみたい。
これが布団の上に毛布の仕組み。

では、なぜ羊毛の毛布だと布団の下がよいのか。
羊毛の毛布も羽毛布団と同じように保温性と吸湿性を併せ持つものなんだよね。
化学繊維のフリースは蒸れるけど、羊毛のセーターはさほど蒸れないのと同じ。
羊毛は繊維中に多くの空気を含むので、これが断熱効果を発揮するけど、蒸気は通すので蒸れにくいのだ。
そして、羊毛の場合、吸湿すると発熱する性質があるので蒸気があるとさらに保温力が高まる性質があるのだ。
なので、羊毛の毛布であれば布団の下にあった方がよいというわけ。

さて、では綿布団はどうするのがよいのか。
綿は、たくさんの空気を含むので断熱性は高いけど、吸湿性もあるんだけど、放湿性がないので、布団がじっとりと湿ってくるのだ。
これが不快の原因になるよ。
一方で、当然化学繊維よりは吸湿性はあるのだ。
なので、羽毛布団と同じように、羊毛の毛布なら布団の下、化学繊維の毛布なら布団の上がよいのだけど、羽毛布団と違って布団自体が重いからさらに何か乗せること自体が重苦しいんだよね。
というわけで、綿布団の場合は、むしろ寝間着を厚着した方がよいのだ(笑)

2021/10/16

超選抜のエリート

 最近かなり収まってきたけど、まだまだコロナが報道の話題の中心なのだ。
感染が治まってきた原因がよくわからないとか、第六波が来るとか来ないとか、ワクチンの3回目のブースター接種をやるとかやらないとか。
この1年半くらいの間でかなりウイルスに関する知識も深まった気がするよね。
でもでも、そんな中、ちょっと気になる表現があったのだ。
それは、「ウイルスが変異してこうなった」みたいな説明の仕方。

これはほ乳類を含む生物の進化でもそうなんだけど、こうなろう、こうなりたい、という目的の下に努力した結果が進化ではないのだ!
あくまでも変化は常に起こっていて、そのうち、生存競争に有利な変化は構成にも伝えられ、そうでないものは消えていくだけ。
これが自然選択、自然淘汰による適者生存。
たまたま現在の環境により適した変化を遂げたものが生き残る、という結果が積み重なったのが進化だよ。
キリンは高いところの葉っぱを食べるために首を伸ばしたのではなく、たまたま首が長くなった個体は他の動物が食べられない高いところにある葉っぱを食べられるようになり、生存競争上有利になったのだ。
なので、その形質を持つものが生き残り、キリンになったのだ。

ウイルスは生物ではないけど、基本的には同じ。
コロナウイルスのようなRNAウイルスは、遺伝情報の本体がDNAより不安定なRNAであることもあって、変異が入る確率は高いんだよね。
これは遺伝情報の複製におけるエラーで、確率的に起こることなんだけど、どこにどういう変異が入るかはまったくのランダム。
そもそもウイルスとしての形を保つことができなくなるような致死的な変異(例えば、カプセルタンパクが作れなくなる、逆転写酵素の活性がなくなるなど)もあれば、遺伝情報としては変異が入っているけどそれがタンパク質に翻訳されるときにはほぼ影響がないような変異(3つの核酸塩基によるコードとアミノ酸の対応は1:1ではないので、変異が入ってもアミノ酸レベルでは変化がない場合もあるし、アミノ酸1個が変わったところでタンパク質の機能には問題がない場合も多いのだ。)もあるよ。

こういう変異は複製されるたびに起こっているんだけど、少なくともウイルスの活性に大きな影響のないものだけが増殖していくのだ。
これがいわば第一次選抜。
まわりの環境に変化がなければこれだけなんだけど、実際にはまわりの環境も刻一刻と変化していくわけ。
季節が変われば気温・湿度が変わるし、人間はウイルスに対抗するためにワクチンとか開発するし。
で、変異が入った結果、従来以上に感染力が強くなったり、増殖能力が高くなったりするものが勢力を拡大していくんだよね。
これがウイルスの世代交代で、いわば第二次選抜。
デルタ株などの変異株もこうした第二次選抜を突破したもので、人間が一定の感染予防対策をした上でも感染力や増殖能力を発揮できるウイルスが勝ち残って蔓延しているのだ。
逆に言うと、これらの対策で防げるものは感染できない・増殖できないので消えていくわけ。


ほんの少しの飛沫にごく短時間接触しただけでも感染できるほど感染力が強くなったり、ワクチンにより獲得された抗体で無効化されなくなったりとかの、ウイルスにとって有利な変化が起こるような変異をしたものが残るというわけ。
いたちごっこになるわけだけど、じゃあ、いつまでたってもこれが終わらないかというと、実はそうでもないのだ。
どこかで収束するのだ。
それはなぜか?
それは、ウイルスは自分では増殖できないから。
ウイルスが増殖するためには、感染して宿主の中で増やしてもらわないといけないんだよね。
なので、十分いウイルスが増える前に宿主が死んでしまうほどの感染症状が出るようになってしまうなどの、強力になりすぎたウイルスはそれ以上増えなくなるのだ。
これが時々報道で言及される「自壊ルート」というやつ。
ウイルスが増えるためには人間との共生が必要なので、必要以上に人間にダメージを与えるようなウイルスは爆発的な感染にはなりにくいのだ。
そのまえに感染した人が死んでいってしまうから。

最初の頃にコロナウイルスが脅威とみられたのも、致死率はそれほど高くないけど感染力が強くてすぐに広まるから。
そして、最初期の脅威は、感染してからの潜伏期間が長く、自覚症状のないキャリアがウイルスを広めていたかもしれない、という事実。
自覚症状はなくても体の中でウイルスは確実に増殖していて、それが飛沫として外に放出されていた可能性は高いのだ。
一方で、変異に変異を重ねた結果、今現在はやっている変異株では、感染から発症までの感覚が短くなっているようで、無自覚にウイルスを広めてしまっている可能性が低くなっている可能性があるんだよね。
これは時間かけて統計学など目視して分析すべきだけど、これが本当だとすると、潜伏期間が短くなったというのはひとつの「自壊ルート」ということになるのだ。

で、この先またウイルスがぶり返すかどうかだけど、これはよくわからないんだよね。
ウイルスに起こる遺伝情報の変異は全くのランダムで、その結果として生じるウイルスの変化も未知数なので、なんとも言えないのだ。
感染力だけは強いけど発症してもたいしたことのないような、「ただの風邪」みたいになるかもしれないし、インフルエンザのように致死率の比較的高い、季節性のある流行感染症として定着する可能性もあるのだ。
今の時点で言えることは、これからどうなるかわからない以上はm当面はウイルス対策をそれなりに継続せざるを得ない、ということだね。
少なくとも、なぜ今世界中で感染が治まってきたのかがある程度わかってこないと、次打つべき手は見えてこないんじゃないかなぁ。

2021/10/09

免許がないっ!

最近警察が取り締まりを強化しているのもあるけど、よくテレビで「電動キックボード」の問題が取り上げられるのだ。
端的に言えば、電動式モーターがついたキックボードは、道路交通法上「原動機付自転車」に該当するので、法令上の義務を守りましょう、ということ。
つまり、「原チャ」と呼ばれるスクーターと同等の規制がかかるわけで、運転には免許が必要、ヘルメットの着用が義務、車両(キックボード)にはライト、ミラー、ブレーキがきちんと整備されていることが必要、ナンバープレートをとることが必要、自賠責保険の強制加入、などなど。
これを知らずに使っているといきなり「切符」を着られることになるよ。
テレビではすでに無免許・車両整備不良で切符を切られている人が映し出されたりしているのだ。

「原動機付自転車」については、道路交通法第2条第1項第10号で定義されていて、内閣府令(道路交通法施行規則)で規定する排気量又は出力以上の原動機がついている車で、軽車両や車いす、歩行補助車ではないもの、とされているのだ。
車いすや歩行補助車は障害のある方や高齢者が使うもので、いわゆる電動車いすとかシルバーカー(高齢者の手押し車)のこと。
軽車両が除外されているのは、電動アシスト付自転車をこの枠組みから外すためだよ。
あれは自転車と同じ扱いでよいのだ。
車両ではあるので本当は斜度を走らないといけなかったりするんだけど。

もともと自転車にエンジンのついたものは軽車両扱いで免許不要だったんだけど、昭和27年にホンダが「カブ」(小型オートバイのスーパーカブとは違って、自転車に後付けでエンジンをつけるキット)が販売される頃に大きく普及し、事故なども増えてきたので、規制されるようになったんだって。
そのときは14歳以上の許可制。
その後、昭和35年に道路交通法が施行される際、16歳以上を対象とする免許制に移行するのだ。
これが現在に続く原付免許。
速度は出ないけど低燃費で小回りがきくから、細い道が多かったりする日本の都市部では活躍したんだよね。
そういう経緯で交通安全を確保する観点で、免許や保険、車両整備などの様々な規制がかけられるようになったわけだけど、これはやっぱり交通に占める割合が無視できず、野放図にはできないからなんだよね。

厳密に言うと、電動キックボードは最初から原動機付自転車に該当するものだったんだろうけど、町中に走っていない限りは問題にならないわけで、これまで危険視もされてこなかったのだ。
ところが、これが広く売り出されるようになり、乗る人も増えてくるとそういうわけにはいかず、きちんと取り締まりをしないといけなくなったわけだよね。
戦後に原動機付自転車の規制が始まったのと同じ理屈。
電動キックボードが原動機付自転車に該当する、ということがあまり知られていおらず、業者にょってはそれを購入者に適切に知らせないままに販売されているため、普通の自転車感覚で乗っている人が増えてきて問題化したのだ。
あれってけっこう速度も出るし、実際に危ないよね。

ボクはパリにいた頃、フランスでも問題になっていたのだ。
フランスは道が狭いし、車を止めるところも少ないので(っていうか、車庫証明なく自動車が買えてしまうため路駐が多く、道の広さに比べて走行できる車線が少ないのも大きな要因。)、自転車が重要な交通手段になっているんだよね。
一方で、押収の自転車は日本のママチャリと違って「ガチ」の自転車で、乗りこなすのはけっこう大変な代物。
そこで登場したのがキックボードで、歩くよりは速いし、割と簡単に乗れるのだ。
で、足で勢いをつけて乗るだけの、モーターのついていないもの(昭和の時代に日本でもはやった「ローラースルーゴーゴー」みたいなもの)であればそこまで問題なかったんだけど、モーターがついたものが出てきてフランスでも規制の動きが出てきたのだ。
規制が入る前は、電動キックボードのシェアサービスなんかも出始めて、気軽に、簡単に町中のステーションで電動キックボードを借りて、目的地近くの別のステーションに返す、なんてのが広まりつつある頃だったんだ。
その後すぐに日本に帰ってきてしまったのでよくわからないけど、その後はどうなったのか?

一方で、規制の網にかけるのは必要だけど、オートバイ型の原動機付自転車と全く同じ義務を課すのもやり過ぎでは、という声もあるのだ。
モーター次第だけど、そこまで速度が出せないようなものもあって、そういうのについては、電動アシスト付自転車と小型オートバイの間くらいのレベルでいいのでは?、ということで、一部の地域で実証実験が始まっているみたい。
具体的には、ヘルメットの着用義務の免除、自転車を除く一方通行での適用除外(自転車と同じように一方通行を免除)、自転車専用道の通行許可(現在はむしろ通行できない)など。
要件は、例えば、毎時15キロメートル以下の速度であることなんだって。
確かにそれだとかなりガチ目に走っているジョギングくらいの速さだから、ママチャリと同じくらいだよね。
一応警察としても、普及を妨げる目的ではなく、あくまでも交通の安全が主旨だから、適切に普及させるような取組もしているというなんだね。
何はともあれ、まずはルールはルールとしてきちんと認識されることが重要だけど。

2021/10/02

カガクの子

 最近はまた受け止めが違ってきているけど、一時期、化学調味料(うま味調味料)への風当たりがすごく強かったのだ。
とにかく体に悪い、という風聞が広まって、使うのが悪みたいな雰囲気があったんだよね。
おそらく、A級戦犯は某グルメ漫画で、化学調味料を摂取し続けると下がバカになって味がわからなくなる、みたいな話が広まったのだ。
基本的には「出汁」の中から単離された「うま味成分」なので、おかしな話ではあるのだ。
塩でも砂糖でも大量にとれば体に悪いわけで、それと同じようなもののはずだよね。

味の素に代表される化学調味料・うま味調味料は日本発祥のもの。
唐代の池田菊苗博士が、コンブに含まれるうま味成分がグルタミン酸であることを発見したことを皮切りに、鰹だしのうま味成分であるイノシン酸、しいたけのうま味成分であるグアニル酸が、「酸・甘・塩・苦」に続く第五の味覚として認識される「うま味」のもととわかったんだよね。
そうなると、コンブや鰹節、干し椎茸で出汁を取る代わりに、これらの物質を足せばいいんじゃね?、ということで開発された調味料なのだ。
最初に調味料として販売されたのがグルタミン酸ナトリウムを主成分とする味の素だよ。

悪い噂が立ち始めたのが60年代終わりの米国。
中華料理を食べると頭痛や疲労感などの症状が出る、といわれるようになり、その原因が、中華料理に大量に使われている化学調味料が原因じゃないかと言われたのだ。
これが「中華料理症候群」と呼ばれるもの。
これは後に濡れ衣であったことが科学的にわかるんだけど、こういう風聞は一度たって浸透してしまうと、なかなかぬぐえないんだよね・・・。
米国でもいまだに批判は続いているそうなのだ。

日本もその流れをくみつつ、日本独自の「嫌悪感」も醸成されていったんだよね。
それが「化学調味料」という名称。
もともとは商品名を言うことができない公共放送が使い始めた言葉。
最初期は小麦粉中のグルテンを加水分解して作られていたグルタミン酸は、やがて石油由来成分から化学合成されるようになったのだ。
こうして、化学的に合成された調味料、ということで「化学調味料」になるんだけど、「天然じゃない」というネガティブなとらえられ方をしてしまった結果、人工的な体に悪いもの、という印象を与えるに至ったのだ。
こうした経緯もあって、現在は「うま味調味料」と呼ぶようにしましょう、と業界が呼びかけているわけ。

ちなみに、現在は化学合成はされてなくて、精糖過程で出てくる廃蜜糖を発酵させて作られているんだ。
サトウキビの搾り汁をそのまま濃縮すると黒砂糖になるわけだけど、その搾り汁の中から白砂糖を結晶化させ、遠心分離して取り出すと、黒っぽい液体成分が残るのだ。
それが廃蜜糖。
かつてはラム酒の原料にされたりしたんだけど、現在は協和発酵の発見した微生物の力でアミノ酸発酵に使われるのだ。
その中にグルタミン酸を作る微生物もいるわけ。
実は、味の素は世界でも有数のアミノ酸製造会社でもあるのだ!
グルタミン酸以外のアミノ酸も様々な微生物を使って作り出しているんだ。

というわけで、現在のうま味調味料は主に発酵により微生物が作り出しているのだ、あまり「化学的」ではないんだよね。
生成過程は化学的だけど、それは精糖や製塩でも同じだよね。
しかも、原料は完全に天然由来。
本来は、口に入るものなのに石油化学関連というネガティブなイメージは払拭されてもいいわけだけど、なかなか一度根ざしたものはぬぐいきれないんだよね・・・。
味の素は広告なんかで「発酵で作っていること」をすっごいアピールしているけど、まだまだ化学合成で作っていると思っている人が多いのだ。
そのためにも、早めに「化学調味料」という名称をなくさないとまずい、と業界は感じていると言うことだよ。

この「うま味」成分は、互いに混ぜ合わせると相乗効果があることが知られているんだ。
コンブと鰹のそれぞれで出汁を取った場合は、合わせ出汁にした場合とでは、味の深みが違うことはむかしから知られていたのだ。
で、その概念はそのまま調味料の世界にも導入されていて、基本中の基本の味の素はほぼほぼグルタミン酸ナトリウムなんだけど、その後に発売されるハイミーはそこにイノシン酸ナトリウムがけっこうな割合で混ぜられているのだ。
現在では、そこに「風味」をつけることで粉末出汁の素(「ほんだし」など)として売られているよ。
味の素は使っていなくても、こういう出汁の素は使う家庭も多いんじゃないかな?
化学調味料ではなく、出汁の素と言われるとネガティブなイメージを持ちにくいからね(笑)