2008/03/24

江戸から京の都へ

そのむかし「旧中山道」を「いちにちじゅうやまみち」と読んだアナウンサーがいたけど、今でも日本の東西をつなぐ幹線として東海道と中山道は名前を残しているのだ。
特に、東海道の場合は新幹線もそのままの名前の在来線もあるし、よりなじみが深いよね。
中山道の方は中央高速や中央線が一部沿って走っているけど、もともと甲州街道沿いの部分もあったりと完全に中山道に沿っているわけではなく、東海道に比べるとマイナーな感じがするのだ。

どちらも江戸幕府が開かれてから江戸と各地を結ぶ街道の中でも特に重要な五街道として整備されたんだけど、すでに律令制の時代から東西を結ぶ道として古い道はあったみたい。
鎌倉幕府ができると京都と鎌倉の間の往復が重要になるわけだけど、さらに江戸幕府が開かれて事実上の首都機能が江戸に移ると、経済の中心地である大坂(当時はこっちの字だよ。)、朝廷のある「都」である京、政治の中心地である江戸を結ぶ道が重要度を増したのだ。
なので、道幅を拡げ、一定区間ごとに一里塚などをもうけるとともに、宿場も整備して往来を楽にしたのだ。

一方で、こうやって道を整備すると攻め込まれることにもなるから、箱根なんかにあるように関所も設けて出入りを制限したのだ。
俗に言う「入り鉄砲に出女」というのは、江戸に向かって鉄砲が入ってくるとクーデターのおそれがあるから厳重にチェックし、一方、参勤交代はだ妙の奥さんと子どもを人質として江戸屋敷に住まわせるようにしていたわけだけど、その人質が逃げ出さないように江戸から外に出る女性を取り締まった、ということなんだって。

東海道の場合は歌川広重さんの浮世絵で有名なように、江戸日本橋から京三条大橋計59ヶ所の宿場が整備されていて、それで五十三次というのだ。
これは53泊するというわけじゃなくて、一般に男性なら1日で2宿分を歩いたというから1ヶ月弱で京都まで行けるのだ。
でも、子どもや女の人はそんなに歩けないので53ヶ所整備してあるわけ。
参勤交代の大名なんかは少しでも経費を浮かせるために駆け足で移動していたというから、もっと飛ばしていたのかもね。
街中をとるときだけ「下に~、下にっ」とゆっくりと歩いたみたいだよ(笑)

東海道の難所と言えば、箱根八里の山道。
とにかく急進で大変だったようなのだ。
今はトンネルもあるけど、箱根の山道は車で登っても大変だよね。
でも、それ以上の難所が、「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」なのだ。
大井川はもともと浅いけど急流でよく氾らんするので難所だったんだけど、それ以上に、駿府城に近いので江戸幕府から渡し船や架橋が禁止されていて、ここをわたるには肩車してもらったり、輿に乗ってわたる必要があったんだ。
このため、川の水位が低い、天気のよい日じゃないとわたれないので、ここで足止めを食うこともよくあったみたい。

もう一方の山側を通る中山道は、かつては東山道とも呼ばれ、また、読み方は同じだけど「中仙道」と描いたりもしたのだ。
幕府は公式には「中山道」と定めたみたいだけどね。
で、こっちの道は山道で、海沿いの東海道に比べて歩きづらいし、かつ、40km近く長くて69ヶ所の宿場が整備されたのだ(六十九次)。
それでもこの道が使われていたのは、大井川のような川がないから足止めを食わないことなんだ。
東海道は大井川以外でも大きな川をいくつかわたるのでそこで足止めを食うことが多かったみたいだけど、中山道は比較的そういう足止めが少ないことが魅力だったみたい。
女性は特に中山道を好んで使ったそうで、江戸末期に14代将軍家茂公に嫁いできた和宮親子内親王の一行は中山道を通ってきたんだよ。

中山道と東海道はもともと草津から先の、大津、京は宿場が共通なんだけど、実は、今の東海道本線は東海道に沿ったところと中山道に沿ったところが組み合わさっているらしいのだ。
海運が栄えていたので、最初に鉄道を敷設しようとしたときに東海道は不利で、山間部に敷設しようと決まったらしいんだけど、碓氷峠などの急峻な山間部では工事が難航し、長期間の工事が予想されるので途中から敷設が楽な海沿いのルートに変更されたんだって。
それが今の東海道本線で、東京から名古屋の熱田までは東海道に沿っていて、その先、岐阜を通って滋賀・京都へと続くところは中山道のルートに沿っているようなのだ。
というわけで、実は中山道という名前は廃れてきているけど、やっぱりしっかりと現代生活の中には生きているのだ。
こういうのっておもしろいよね。

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