奈良の橿原で
日本時間ではすでに12日だけど、米国時間だとまだ2月11日。
すなわち、「建国記念の日」なのだ。
この日は神武天皇が東征の後に奈良の橿原の地で即位した日と言われているのだ。
神武天応が即位して宮を構えたのが畝傍橿原宮(うねびかしはらのみや)で、それがあった場所に明治になって創建されたのが橿原神宮だよ。
言わば大和朝廷発祥のちなんだよね。
戦前は、この神武天皇が即位した日を「紀元節」として祝日にしていたのだ。
神武天応が即位したのは旧暦の1月1日だったらしいんだけど、明治5年に紀元節を祝日としたときは、ちょうど旧暦から新暦に移行する時で、旧暦の1月1日が1月29日にあたったので、その日を祝日としたみたい(旧暦明治5年12月3日が新暦明治6年1月1日になったのだ。)。
でも、紀元節は旧正月を祝う祝日だとという誤解が国民の間に広まり、さらに先代の孝明天皇の命日の1月30日にも近いので、日付を設定し直すことにしたんだって。
当時の文部省天文局(今の国立天文台)が干支をもとに神武天皇の即位したといわれる旧暦の元日が新暦のいつに当たるか(紀元前660年と言われているよ。)を計算して求めたらしいんだけど(計算の詳細は不明みたい)、それで出てきた答えが今の2月11日なんだよ。
神武天皇の即位した日は「朔」の日だったと記紀神話に書かれているんだけど、当時は月齢までは計算できなかったので、単に60を周期とする干支で計算したみたい。
でも、実際に後から月齢を計算してみると、確かに新月だったみたい。
戦前はこの紀元節に加え、明治天皇の誕生日の明治節、天皇誕生日の天長節、新暦の新年を祝う四方節(宮中行事で旧暦の1年のはじめに豊作と無事を祈る四方拝がもとになった祝日なのだ。)の4つが四大節(しだいせつ)と呼ばれ、最も重要な祝日だったんだよ。
ちなみに、皇后誕生日は地久節と言うんだけど、この日は祝日ではないのだ。
この他、宮中行事に由来する新嘗祭(今の勤労感謝の日)や春季・秋季皇霊祭(今の春分の日と秋分の日)などの祭日が定められたんだ。
戦後になると、昭和47年に片山哲により、日本国憲法にふさわしい祝日として紀元節が「建国記念の日」という名前で盛り込まれたんだけど、連合国軍最高司令官総司令本部(GHQ)に「かつての軍国思想につながるもの」として削除されたのだ。
確かに戦中は皇国思想の行事として使われていたんだよね・・・。
でも、占領が明けた1952年(昭和27年)から復活運動が起きて、1958年(昭和33年)には議案が国会に提出されたのだ。
そうこうして1966年(昭和41年)になって佐藤栄作内閣が政令で「建国記念の日」を再制定し、翌年から「建国記念の日」が祝日になったんだよ(同じ年に体育の日と敬老の日も制定されたようなのだ。)。
ちなみに、「建国記念の日」は「国民の祝日に関する法律」においても「政令で定める日」となっていて、その日付を定める政令が佐藤栄作内閣が出した「建国記念の日となる日を定める政令」なのだ。
でも、こういう経緯があるから、今でも建国記念の日は紀元節の復活で、国民の祝日としてふさわしくない、なんて意見があるんだよね。
初期の頃の天皇はとても長生きで伝説的なので、実際に神武天皇がいつ即位して、いつから今の天皇家が日本を治めていたのかはわからないんだけど、紀元前660年という説が本当だとすると、世界でも有数の古い王家になるんだよね。
中国をはじめ海外では通常前の王家が倒されて次の王家が出てくるのだけど、日本の場合はなぜか天皇家は残ったままで、征夷大将軍が幕府を開いたりして「事実上」の支配者として君臨しただけだったので、ずっと天皇家の治世が続いているのだ。
これはなかなかおもしろいことだし、せっかくの記録なので、そういう記録ともあわせて、建国記念の日を祝ったらよいと思うんだけどね。
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