東と書いてあづま
「東」という字は「あずま(あづま)」とも読むよね。
北や南、西にはそんな読み方はなくて、東だけが特別なのだ。
この読み方は、ヤマトタケルノミコト(日本武尊)の伝説に由来しているんだよね。
ヤマトタケルノミコトの東征の折、走水(今の浦賀水道のあたりで、東京湾をはさんだ千葉と神奈川の間の水域なのだ。)でミコトが軽はずみな言動をしてしまったために海神の怒りを買い、海が荒れてわたれなくなってしまうのだ。
そのとき、后のオトタチバナヒメ(弟橘媛)が海に身を投げて人身御供となり、海神お怒りを鎮めて無事にわたれるようになるんだよね。
でも、そのせいで后を失ってしまったミコトは嘆き悲しみ、「吾妻(あづま)はや」(我が妻よ、という意味だよ。)と嘆息するのだ。
それ以来、この東国地方のことを「あづま」と呼ぶようになった、と言われているんだ。
オトタチバナヒメの遺品(櫛や着物、橋など)が流れ着いた場所では人々がその悲話をおもんぱかって、塚を築いたりしたんだよね。
それが墨田区なんかにある吾妻神社(又は吾嬬神社)なのだ。
墨田区の吾嬬神社には連理の木があるんだけど、連理というのは2本の樹木の枝が融合したもので、ミコトとヒメの愛情の深さを表しているなんていうんだよね。
で、実はこの話は伊勢物語の「東下り」にも影響を与えていて、この話の中では主人公(在原業平さんといわれているよね。)は、遠く離れた旅先の東国で都に残してきた妻のことを想っていたりするのだ。
第九段の東下りは特に多くの和歌が含まれているんだけど、そのうち、有名な「かきつばた」の歌は、
唐衣 着つつなれにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思う
という旅先で妻のことを思っている歌だし、その後に出てくる、
駿河なる 宇津の山辺の うつつにも 夢にも人に あはぬなりけり
というのが出てくるけど、これは現実にも夢にも好きな人=妻に会えなくなったことを嘆いているものと言われるのだ。
※むかしの日本では相手が自分のことを想ってくれていると夢にその人を見る、と信じられていて、旅の途中に相手の気持ちが離れてしまったのかもしれない、という悲しい気持ちを詠んだものなんだよ。
さらに、最後の
名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
は、都に残してきた妻はどうしているのだろう、と思いをはせている歌なんだよね。
ちなみに、隅田川にかかる言問橋はこの歌から名前をとっていて、歌に出てくる都鳥はユリカモメのことだといわれているよ。
墨田区役所の近くには吾妻橋もあるけど、これは江戸の東だからとか、吾嬬神社へつながる道にあるからとか言われているんだけど、漢字が「わがつま」になっているのはやっぱり伝説と関係があるようなのだ。
というわけで、おそらく「伊勢物語の作者は、東下りの「東」がヤマトタケルノミコトが妻の死を嘆いたことに由来するという伝説を踏まえて、「わがつま」と「あづま」をかけて主人公にこういう歌を詠ませているんだよね。
なかなかよくできたものなのだ。
こういうのも含めて古文の授業で教えてくれるともっと興味が出ると思うんだけどな。
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