割らずに開け
正月の11日といえば鏡開き。
かたくなった鏡餅を木槌でたたいて砕いてから、雑煮や汁粉にして食べるのだ。
むかしは武家の間で鎧などの具足にもちを供え、それを取り下げて雑煮にして食べる「刃柄(はつか)」という習慣があって、それが一般に広まったんだって。
※「刃柄」というだけに正月20日だったんだけど、家光公が20日になくなったのでそれを忌日として11日に行うようなり、それが今に至っているそうだよ。
刃物で切らずに木槌などでたたくのは、刃物で切ると切腹を連想させて縁起が悪いからなのだ。
で、「割る」と言わずに「開く」というのも同じような理由で、「切る」や「割る」は縁起が悪いので避けられて、「末広がり」につながる縁起のよい「開く」という言葉にしているんだよ。
これはいわゆる「忌み言葉」の一種で、結婚式では「壊れる」、「分かれる」なんて言葉を使っちゃいけなかったり、スルメのことを縁起を担いでアタリメというのと同じなのだ。
ゴマなどをすることも「あたる」と言い換えることがあるよね。
葛飾の亀有ももともとは亀梨村だったのを、縁起をよくしようと亀有に変えたと言われているのだ。
この忌み言葉の風習は「言霊」の信仰と関係があって、かつて日本では言葉それ自身にものごとを実現する「力」があると考えられていたのだ。
うっかり口に出すとそうなってしまうというわけ。
よい言葉を話せばよいことが起こるし、悪い言葉を話すと悪いことが起こると考えられていたんだよね。
万葉集でおなじみの柿本人麻呂さんの歌にも、「志貴島の倭(やまと)の国は事霊(=言霊)の幸(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ」なんてのがあって、日本は言霊の力で幸せがもたらされるなんて考えられていたみたい。
この考えは日本の民間信仰にも根付いていて、祝いの言葉をかけたり、呪いの言葉をかけたりするのはこの言霊の力を念頭に入れているのだ。
ちなみに、聖書でも一番最初に神が「光あれ」と発するところから始まるけど、これもまさに言霊の力だよね。
本当に口に出した言葉に大きな力があるかどうかはよくわからないけど、言葉の持つ力自体は否定できないんだよね。
言葉が持っている最大の力は、抽象的なものが表現できて、他人との間で意思の疎通を図ることを可能にすることなのだ。
この世の中にはひとつとして同じリンゴはなくて、すべてのリンゴはそれぞれ違うものだけど、「リンゴ」という言葉を使えば、抽象的なイメージとしてのいわゆる「リンゴ」が思い浮かぶよね(この抽象的なイメージというのがギリシア哲学で言うところの「イデア」の世界だよ。)。
これによってわざわざどのリンゴかを特定する必要がなく、時間と空間を越えて共通の認識を持つことが可能になるのだ。
そういう意味では、言葉にして口に出してはじめてその効果が現れるので、それは言霊の力と言えるかもしれないのだ。
本当はそれが何か詳しくわからなくても、名前さえわかればそのものについていちいち説明せずともなんとか話が通じるというのは実はすごいことなのだ。
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